林に囲まれた外湯は、大きくはないが、落ち着いた作りだった。大小取り混ぜた石が囲む湯船は微かに濁った湯をたっぷりと満たし、立ち昇る薄い湯気の中で、湯面によく晴れた夜空の三日月を浮かべている。
この露天風呂は、この庵の客のためだけのものだから、勿論男湯と女湯が分かれているなんて事はない。
だから今、僕の目の前には裕美子がバスタオル一枚を胸元から巻いて立っている。何度も見慣れた身体にも関わらず、見とれてしまう。豊かな胸元と、そこからくびれるしなやかな腰のライン、すらりと伸びた脚。
「あんまり見ないのっ」
裕美子が笑って、僕の肩を叩く。
「あは、悪ィ」
僕は簡単に湯をかぶり、足をそろそろと湯に浸けた。
「あれ? 温いぞ」
想像していたよりも、意外なほど温かった。
「ホント?」
裕美子も湯船の縁に膝を突き、指先を湯に浸ける。
「あ、ホントだ」
僕たちは一気に湯に身を沈めた。
「あ、でも、これぐらいがいいのかもよ」裕美子が言う。
「ゆっくり浸かるにはちょうどいいじゃん」
「それもそうか」
僕は平たい縁石を探して枕代わりにし、身体の力を抜いていく。身体が少し浮いてくる。
心地よさに、「はあぁ~~‥‥」と、自ずと声が口を突いて出る。意外に疲労が溜まっていたのかもしれない。身体が、鉛が抜け落ちたように軽くなる。
裕美子も僕の傍らに寄り添う形で、同じように湯船にゆったりと身を委ねた。やはり同じように、「はあぁ~~‥‥」と、漏らす。そして、「やっぱ、『はあぁ~~』が温泉の醍醐味だよねえ」と、ご機嫌だ。
湯は程よいぬめりを孕み、身体を柔らかく包んでくれる。
裕美子が不意に、「ここのお湯って、なんかコーノーみたいなものあるのかな?」
「コーノー?」
「効果の効に、能力の能で効能。ほら、リウマチとかさ、関節痛に効くとかあるじゃん。テレビとかで、よく美女が湯に浸かりながらプラカード持って説明するやつ」
「ああ、効能ね」
僕は合点がいく。
「ええと、パンフレットには確か、腰痛、肩こり、冷え性とか書いてあったような気がする」
「わたし、冷え性だし、ちょうどいいや」
最初は温いと思っていたのに、徐々に足の先からじんじんと芯が暖まってくるような気がする。
ふたりで湯船に浮く2本の棒のようになって、夜空を眺める形になる。良く晴れた夜空は小さな月と、満天に星の光を灯していた。都会と違って澄んだ空気の中で星たちは、そのひとつひとつが大きく瞬いて見えた。
しばらく会話が途絶えたが、気にならなかった。大好きな女の子が隣にいて、同じ星空を眺めている。今の、この瞬間が愛しかった。キェルゴールの言葉を思い出した。
『しばらく黙っているといい。その沈黙に耐えられる関係かどうか』
「あ‥‥」
裕美子が口を開き、静まり返っていた空気が微かに震えた。
「どうしたの?」
「今、流れたよ、星。流れ星」
「しまった、見逃した」
残念、と裕美子は笑い、「ちょっといい話があるよ」
「聞きたいな」
「うん。そりゃあ、都会とこんな田舎とじゃあ違うかもしれないけど、流れ星って大体、10分に1回ぐらい見えるんだって」
「へえぇ」
「よくさ、流れ星に願い事をするって言うじゃない。ってコトはよ、人間は、少なくとも10分に1回は願い事を許されてるってコトなのよ」
「ああ、成る程。なんかそれって深いね」
「でしょ?」
「さっき何か願い事したの?」
裕美子は身を起こし、質問には答えずに僕に訊き返した。
「誠一は願い事、何かあった?」
「うーん‥‥」
ちょっとの間考え込んだ僕を急かすように、裕美子が「なになに?」
僕は言った。
「この瞬間の、この想いが‥‥永遠に失われませんように」
裕美子が黙り込んでしまい、沈黙が訪れる。
率直な気持ちだったのに、我ながら気恥ずかしくなった。ばつの悪さを隠すように僕は「裕美子はどうなんだよ」と言い、裕美子の顔を見た。真っ直ぐに夜空を仰ぐその横顔は凛として、そしてなぜか痛ましいような気がした。
「時間は流れていくんだよ」と、裕美子は言った。か細い声だった。
「永遠に失われないものなんて、あるのかな‥‥」
「なんだよ、いきなり」
僕は浮かべていた身体を沈め、中腰になる。
「ひとの心とは無関係に時は流れていく。今の感情も、星が流れた一瞬後には失われていく」
「それは‥‥そうかもしれないけど」僕は言った。
一瞬一瞬の積み重ねを僕らは生きている。全てが変わりゆく中で、移ろいやすい人の心に永遠を求めるのは無理かもしれない。今この瞬間に感じている、裕美子をこよなく愛しいと思える気持ちも、いつかはそれが幻だったかのように消え失せていくのかもしれない。しかし、未来の自分に対する漠とした不安は誰にでもある。
でも、と僕は続けた。
「だからこそ、いつも裕美子のことを大切にしていきたいんだよ。今のこの気持ちだけは確かだよ」
湯面が小さく波立つ。裕美子が僕の目の前まで身を寄せて来ていた。
僕の頭を抱き抱えるようにして裕美子は僕の名を呟き、唇を僕のそれに重ねてきた。彼女は目を閉じ、僕も目を閉じて互いの唇を吸い、舌を絡ませ合った。いつになく激しい彼女のキスは、まるで逃げ去る何かを捉えようとするかのように。まるでそこはかとない不安を打ち消すように。
ふと僕は、キスの際中に彼女が泣いている事に気付いた。急に酸っぱい味がしたから。
唇を離し、「どうしたの?」と僕が訊くと、彼女は「なんか急に切ない気分になっちゃった」と答えた。
その答えにどこか腑に落ちないものを感じた僕に、裕美子は「誠一、しよ‥‥」と呟いた。
その声は、なぜか悲しみを伴って聞こえた。
湯船は何だかやりにくそうだと思って、僕らは部屋に戻り、布団の中に入った。
僕は裕美子を横たえ、自分の身を被せる。湯上りの彼女の湿った髪はパーマのせいで、クリンクリンの巻き毛になる。僕は彼女の髪の感触を手のひらで楽しみながら、裕美子の上半身を見下ろして、ふう。思わず感嘆が漏れる。
「なに?」と裕美子が訊いた。
「なんでこんなに無茶苦茶好きなんだろうなあ、って」
「わたしのこと?」
「そう」
「わたしのコト、かーいいって思う?」
「すっげえ、かーいいさあ」
「わたしも、誠一のコト、大好きだよ」
裕美子は嬉しそうに笑うと、僕の首に腕を絡ませて引き寄せ、キスをした。
絡み合う舌と吐息。くちゅくちゅという音が耳に心地いい。
ひとしきり、互いの唇を味わい尽くして顔を離すと、唇の間に唾液の太い糸がぬるーっと引いて、すぐに切れた。
(なんか、エッチっぽい)
彼女もそう思ったのか、一瞬の沈黙のあと、ふたりでクスクス笑った。
「したいしたいと思ってると、つばって、たくさん出ない?」裕美子が言う。
「そっかあ?」
「そーだよ」
「じゃあ、裕美子、会えなかった間ずっと、つば、いっぱい出たのか?」
「え‥‥」
裕美子は黙ってしまった。ちょっと調子に乗りすぎて、僕はデリカシーの無い事を言ってしまったのか?
とりあえず「ごめん」と謝って、裕美子の耳たぶにキスをする。
「あ、ううん、いーよ‥‥」
裕美子の吐息が乱れる。それを聞いていると堪らなくなって、僕は唇を首筋から胸元に滑らせる。きめの細かい彼女の肌はまるで、そちらから吸い付いてくるような心地よさだ。
やがて僕の唇は、張りのある豊かな膨らみを昇るとその頂きに達し、小さな突起を挟んで軽く吸い上げる。
「ん‥‥っ」
裕美子の声が一瞬詰まったようになる。
突起の表面を舌先でゆっくりと舐め回しながら、もう一方の乳房にも手を添えて、やんわりとこね回す。
裕美子の吐息が熱を帯びてくる。それは、ちょっとずつ速くなったり、ゆっくりになったり。
僕の下半身はもうすでに固くなってしまっていて、裕美子の柔らかな腹を突付き回していた。彼女もそれに気付き、そっと手を伸ばしてそれを柔らかく包み込むと、親指の腹でゆっくりとその尖端を撫で回し始めた。微かな甘い感触が、腰の辺りをくすぐる。
「ねえ‥‥」
裕美子が僕の頭を抱くようにして言った。
「もう、入れて欲しい‥‥」
「え‥‥?」
まだ前戯も始めたばっかりなのに、と、僕は彼女の胸に埋めていた顔を上げた。
すると、「ねっ?」と、彼女は切なそうな表情で僕を見詰めていた。
僕はそっと囁いた。
「いいの‥‥?」
少し掠れた声になった。
裕美子の漆黒の瞳が僕を見つめ、「うん‥‥」
妙に赤く見えた肉厚の唇が動いた。睫毛が微かに震えているようだった。
裕美子の股間の秘部に指を伸ばして驚いた。彼女の柔肉は、すっかり潤っていた。いや、溢れていた。
「早く‥‥っ」
頭を少し浮かして、裕美子は僕の唇を再び貪った。
僕は予め枕もとに用意しておいたスキンを取り出して、固くなったそれに被せると、裕美子の太腿の間に腰を入れた。
裕美子の火照り切った肉襞を指で開き、僕のそれをあてがう。
裕美子は目を閉じたまま、それを待っていた。
――ちょっと、苛めてやろうか?
なんて、僕は思ってしまい、尖端で秘部の入り口をくすぐるようにこすった。
裕美子は「ん‥‥っ」とうめき、僕の頭を平手で軽くはたいた。
「もおっ! 焦らさないのっ」
彼女は笑っていたけれど、その目はちょっと怒っているようで、「ごめん」と、僕はゆっくりと腰を沈めた。
それは意外なほどにあっけなく、ぬるりと奥まで呑み込まれてしまった。暖かな体温が、僕のものを柔らかく包み込んだ。
「んぁ‥‥っ」
同時に、裕美子の顔が小さく上擦る。
「裕美子‥‥」
僕は彼女にキスして、そのまま腰を動かし始めた。
「んんっ、んくっ‥‥」
腰が動くたびに唇が離れそうになると、僕はまた塞いだ。裕美子はそれでも切なそうに喘ぎを漏らす。
裕美子は向かい合ってされるのが――つまり、正常位が好きだ。しかもそのとき、お腹とお腹を密着させて欲しいという。お腹とお腹が離れていると、その間の空間に途方もない寂しさを感じるのだそうだ。
だから僕は重みが掛からないように、手で適度に自分を支えながら、ぴったりとお腹をくっつけていた。腰だけを動かす形になる。
さっき湯船で話していた、流れ星と時間に関する会話のせいだろうか、まるで裕美子がどこか遠くに行ってしまいそうな気がして、僕はいつもよりも激しかったと思う。
そして裕美子もいつになく、声が大きかったと思う。
「誠一ッ‥‥あ、あっ‥‥ああッ‥‥」
裕美子の手が僕の背中に回され、爪を立てた。
久々だったせいか、僕はあっという間に昇り詰めそうになってしまう。
「やば‥‥もう‥‥イきそ‥‥っ」
僕はうめいた。
「えっ? あ! もう? ぁんッ!」
「うく‥‥ッ‥‥ああっ‥‥」
昇り立つ甘い痺れを抑えきれずに、僕は達してしまった。次々に打ち出されていく欲望の熱い雫。
そして、心地いい虚脱感と共に、僕は裕美子にぐったりと倒れこんだ。
「重い~っ!」
裕美子が汗で湿った僕の背中をばしばしと叩いた。
「あ、ごめん」
僕は謝って、裕美子の横に転がるように仰向けになった。
「ごめん‥‥その‥‥こんなはずじゃあ‥‥」
力なく頭を垂れてくるものからスキンを外しながら、ばつの悪さを誤魔化すように僕は言った。。
息遣いを整えながら、裕美子は
「え‥‥ああ、いーよ。だって、わたしで欲情、してくれたってコトでしょ? 嬉しいよ」
そう言って、ふふっと満面の笑みを浮かべた。汗の玉が鼻の頭で小さく光っている。
「悪ぃ‥‥」
「謝らなくていいって。その代わり、すぐに元気になってもらうからねっ」と、裕美子は布団の中に潜った。
「え‥‥?」
呟いた時にはすでに僕のものは、裕美子の唇に咥え込まれていた。
「ちょっと‥‥ちょっと待てって。たった今、終ったばっかだぞ」
「ん~?」
裕美子の息が僕の股間をくすぐる。と、裕美子がすっぽり被っていた布団をどけて、僕のソレから顔を離した。
「いーのいーの」
「いーのいーの、って‥‥んぅっ」
裕美子は再び顔を僕の股間に埋め、「行為」を再開した。口の中に収められた尖端のさらに先を、舌先がちろちろと弄ぶ。
気持ちよさよりも、少しのくすぐったさが先行して、なんだかヘンな感じだ。
「まだ、むーりーだって」
僕は裕美子の頭を撫でる。
いちいち横槍を入れられるのに気を悪くしたのか、裕美子はキッと僕の顔を見ると「黙っててっ。別に無理に立てようなんて思ってないよ」と、しかしそれは咥えたままだったから、舌足らずな言い方になって聞こえて、それはそれで可愛かったけれども、ともかく。
裕美子は、丹念に僕のソレを愛撫し続けた。時にソレを指で掴んで上下させたり、時に棒アイスを舐めるように舌先をぞろろっと根元からてっぺんまで滑らせたり。
裕美子は愛しそうに僕のソレをひたすらすると、じきに僕の下半身は甘い感覚に疼き始めた。じゅんじゅんと熱を帯びてくるのが分かる。
「んっ」
裕美子が何かに気付いたように顔を上げ、僕のソレを頬張ったまま、頬を緩めた。そして目を細め、手でOKサインを作る。
何が“OK”なんだかよく分からない。トホホな気分だ。強制的に勃起させられてしまった情けなさ。
しかし、裕美子はやめようとしない。ちゅぷ、ちゅぷと音を立てながら、「行為」に没頭している。
僕は「もう充分だって、早くしよ」と、裕美子に促した。
裕美子は唇を離し「このままいっぺんイッとく?」
「なんでそーなるよ?」
我ながら情けない声。
「結局ねえ、好きなのよね、されるよりする方が」
「口で?」
こっくりと大きく頷く裕美子。その明け透けな仕草が気持ちいいほどだ。
「でも、オレも一方的に、される、のは‥‥なあ?」
途切れがちに、僕は呟くように言う。
くくく、と含み笑いをして裕美子は、「気持ちいくない?」
「そりゃあ‥‥気持ちいいけどさ」
にいっと笑うと、裕美子はまた「行為」を再開する。続けながら裕美子は時々、僕の表情を上目遣いで窺う。感じている時の僕の表情を見ると、この上なく幸せなんだそうだ。
僕も、そんな裕美子が可愛く思えて、必要以上に感じてしまう。もはや僕「自身」は、はちきれないほどになっていて、裕美子の舌先は豪快に舐め回す。
「んっ、んっ、んっ」と鼻を鳴らしながら、裕美子がストロークのピッチを上げた。
「うっ、うあ‥‥っ」
あっけなく、僕はまたしても放出してしまう。慌ててティッシュを引き抜く音。
ぐったりと力なく布団に身を沈める僕に、裕美子が寄り添うように顔を寄せてきた。
「へっ、ざまァねーやっ」
芝居がかった口ぶりで裕美子が言った。
「裕美子さ、なんでそんなに口でやるのにコダワルわけ?」
「うれしーのよ」
事も無げに彼女は言う。
「それとも何? なんか不満なの?」
「いや、不満って言うかさ」
「美味しいえっちが出来ればいいじゃん」
裕美子はいつだって真剣だ。たまには手を抜いたら?と、言ってみるが、それだけが取り得だから、と、彼女は聞く耳を持たない。
彼女はしばらく僕の胸板にちゅっ、ちゅっ、と、キスを繰り返した。彼女はキスが大好きだ。自分の“しるし”を残しているような気がするんだそうだ。
僕はそんな彼女の頭を撫でてあげる。ちょっぴり汗ばんだ彼女の髪。薄く熱の膜が張っているような感じ。
「まあ風呂入らなきゃね」
「うんっ」
嬉しそうに裕美子は顔を上げる。
「もっかいやったらね」
僕は参ったように「はいはい」
「でも、ちょっと休ませたげる」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
鼻の頭に皺を寄せて、裕美子はにんまりと笑った。
結局そのあと、僕たちは、何か月か分の互いの不在を埋め合うような濃厚なえっちを何度かして、また外風呂に入った。
やっぱり好きなんだよなあ。しみじみ思う。
普段は清楚に見えるのに、エッチとなるとかなり大胆。いつもはおっちょこちょいのクセに、舞台に上がると見事な舞を披露する。絶えず可愛いワガママが尽きないのに、よくよく考えれば、大きな事に関してはいつも僕の事情を優先してくれる。
つまり、裕美子は矛盾のかたまりのようなコなのだ。常に二律背反する事柄が裕美子を構成する。彼女のそんなところに僕は惚れてるんだと思う。
頑張っちゃうからね、と張り切っていた裕美子だったけど、何のことは無い、風呂から上がると、そのあまりの気持ち良さも手伝ってか、すぐに寝息を立て始めた。
僕は電灯を消して、月明かりがうっすらと青く照らす彼女の寝顔を見ていた。
裕美子といると、優しくなれる。付き合い始めて2年も経つのに、彼女といると、苛立つ事は無い。裕美子は退屈を知らない女の子だからだと思う。
僕には裕美子が必要なんだ。
そんなことを考えながら、僕は裕美子の呼吸に自分のそれを合わせてみる。出来れば、同じ夢が見られるように。夢の中でもまた会えるように。
そうして、僕は優しい眠りに誘われていく。
寒さで目覚めた。
目を開けると、朝の光でぼんやりと明るくなった天井があった。隣では裕美子がまだ安らかな寝息を立てている。
ちょっとの間彼女の寝顔を見ていた僕だが、トイレに立とうと身を起こそうとして、腕枕をしていた事に気付いた。
裕美子を起こさないように、そろりと腕を抜く。
腕がやけにだるい。どうやら裕美子の頭の重みで血流が悪くなり、痺れているようだった。
腕を抜くと、その重さで肘を布団に突いてしまった。腕の付け根から鉛の塊を提げているようだ。
自分の腕をもう一方の腕で抱き抱えるようにして、僕は立ち上がる。
「さむさむ」と呟きながら戻ってくると、裕美子はいなかった。
掛け布団が置きぬけの形のまま残っていた。
腕を抜いた時に微かに身じろぎしたように見えたけど、起こしちゃったんだろうか。
縁側に出てみる。
寒いはずである。うっすらと雪が積もっていた。庭石や植木が真っ白なベールを滑らかに被っている。
何かが動く気配は全くなく、静寂だけが饒舌なほどに辺りを満たしていた。まるでここだけが切り取られて時間が止まってしまったかのようだ。
いや、しばらくしてバサーッと何かが軽く崩れる音。
続いて「冷た~い!!」という間抜けな悲鳴。
「どこ行ってたの?」
頭の雪を掃っている裕美子に尋ねた。
渡したタオルで髪をわしゃわしゃしながら裕美子は、「ココのひとに、近くになんか面白いトコないか訊いて来たの」
裕美子の話では、菊屋の背にある小さな山の裏手に細い渓流が走り、趣のある吊り橋が掛かっているとのことだった。
吊り橋なんて見たことないから、是非行ってみたいと言う裕美子。
車をわざわざ出すような距離じゃないので、午前中はごろごろして、昼を食べたら行ってみることにした。
相変わらず美味い昼ご飯を食べると、僕たちは菊屋を後にした。
玄関で見送りに出てくれた加藤さんが、ちょっと雨が降っているので、と、番傘を2本用意してくれていた。
華奢な手が僕に差し出した傘を、裕美子が引っ手繰るようにして受け取る。「ありがとうございます~」と、しおらしい声を添えて。
僕が怪訝な顔で見ると、裕美子はどうだと言わんばかりに胸を張った。いや、何が「どうだ」なのか分からないけれど。
ばさっと傘を開く。おや、と思う。意外なことに、傘の骨に当たる部分はプラスチック製だった。ちょっとがっかりだ。
菊屋の門を出て、すぐ前の坂道を上る。
すると裕美子は自分が差していた傘を閉じて、そうするのが当たり前のように僕の傘に入ってきた。
「なんだよ」
ぶっきらぼうに僕はこぼした。付き合って2年ともなると、こういうコトはさすがに照れ臭い。
しかし裕美子は「いーじゃーん」と、嬉しそうにしている。
吐く息が白くなる。
雨のせいで、雪は大方解けていたが、僕は坂道で時々滑りそうになる裕美子を助けなくちゃいけなかった。
目的の場所には思っていたよりもすぐに辿り着いた。
なるほど、趣がある。
山の間の渓谷に細い吊り橋が掛かっていて、その下にはごろごろと大きな石が解けかけた雪を被って重なり合い、白い糸のような水の流れがその合間を縫って流れていた。
吊り橋はひと一人がすれ違うのがやっとという幅だった。結構年代モノなのだろう、一歩踏み出すたびに、ぎしぎしと鳴って揺れた。裕美子はしかし怯える風でもなく、僕の後に続き、たまにわざと揺らして僕を慌てさせた。
橋の真ん中辺りで僕たちは立ち止まり、遠くの景色を見た。遥かに見える山の端が灰色に浮かび上がって見え、どこかで見た山水画のようだ。雪景色の中で、すべてがモノトーンだった。
「きれい‥‥」
裕美子が思わず言い、その言葉に僕も頷いた。
耳を澄ますと、下から立ち昇る細い渓流の音が聞こえてきた。しばらく僕らはじっと寄り添い合うようにして、その音色に身を預けた。
「寒くないか?」と、僕は彼女の返事を聞くことなく、巻いていたマフラーを裕美子の首にゆったりと巻いてやった。
「なんかねえ」と、裕美子は呟くように言った。
「こわいよ‥‥」
「‥‥なにが?」
僕が尋ねても、しばらく何かを堪えるように、きゅっと口許を結んでいた裕美子だったが、意を決したように口を開いた。
「ずっと前に、誠一の部屋で『髪結いの亭主』って映画観たでしょ?」
話は何となく覚えている。幼い頃から髪結いの亭主になりたいと思っていた主人公が、望み通りに美しい髪結いと結婚する。そして、ふたりの至福の日々が始まる。しかしある日、セックスを終えた彼女は急に家を飛び出し、橋から飛び降りて死んでしまうのだ。
「あの映画、誠一はワケ分からんってコト言ってたけど、わたし今、最後に飛び降りたあのヒロインと同じ気分だよ」
またしても訳が分からない。
そんな僕の気持ちを感じ取ったのか、裕美子は続けた。
「幸せ過ぎて、こわい」
「いいじゃんか。幸せ過ぎたって、別に損するワケじゃないだろ」
「違うよ。そうじゃなくて」と、裕美子は柔らかい笑みを浮かべた。それが却って切なげに見える。
「時間は流れてるんだよ。幸せなこの瞬間が終わっていく。次の瞬間にまた幸せかどうかは分からない。今が最高なのかもしれない。そう思ったら、もし今死んだら、今のこの幸せは永遠になるから」
そこまで一気に喋ると、裕美子は目を伏せた。
そんなことを言っている裕美子がふと消えてしまいそうな気がして、僕は、「何言ってンだよ~」と、茶化してみせる。
しかし裕美子はいつもと様子が違った。
何か思い詰めたような潤みがちの瞳を上げると、僕が思いも寄らないことを話し始めたのだ。
裕美子は切実な視線を僕に投げ掛けていた。
後々考えれば、もしかしたらそれは「わたしを止めて」という訴えだったのかも知れない。
しかしそのとき僕は、急に雰囲気が変わった裕美子に戸惑うばかりだった。
小降りだった雨は、いつしか風に舞う粉雪に変わっていた。いくつもの薄く細かな白が、僕と裕美子の間をちらちらと舞っている。
裕美子は沈黙を埋めるように重い口を開いた。
「半年ぐらい誠一と会えなかったじゃん? それでね、わたし、あるとき友達に誘われて合コンに行ったの」
裕美子は慎重に言葉を選ぶように、とつとつと話す。
そこまで聞いた時点で、僕は嫌な予感がしていた。冷たい風が頬にピリピリと痛い。
「それでね」と、黙ったままの僕に裕美子は続けた。
「わたしの向かいに座った男の子とよく喋ったの。誠実そうで明るくて、気が合うと思った。電子機器メーカーの営業のひと。率直に、素敵だなあって思った。彼もわたしと話していて楽しそうだった」
そこまで話すと、裕美子は言葉を詰まらせた。
僕は人形遣いを待つ人形みたいに裕美子の言葉を待つことしか出来なくて、裕美子の様子をつぶさに見詰めていた。
俯いた裕美子の喉元から嗚咽が漏れ始めた。途切れがちになりながら、裕美子はくっきりと言った。
「わたし、彼に惹かれたの‥‥一瞬、彼に抱かれてる自分を想像してた‥‥」
その瞬間、わずかに吹いていた風が不意に止んだ。まるで止まった時間の中を雪だけが降っているようだった。
「でもね」と、裕美子は顔を上げた。
「彼とは何もなかった。これはホント。そのあと、彼と会うことはなかった。携帯の番号も交換しなかったし」
「‥‥別に、気にするほどのことでもないじゃん」
何かを吐き捨てるように言った。
僕は何かに怯えていたのかも知れない。裕美子のことをよく分かっているつもりだったのが、実は何も知らないのではないかという不安がにわかに込み上げてきたのだ。事実そのとき、僕は裕美子の顔を見ることが出来なかった。
合コンで知り合った誰かに惹かれる。それは、そんな特別な事だろうか。気の迷いなら、誰にだってあるんじゃないか。
なのに、そんな自分の中の帳尻合わせを打ち砕くような深刻な調子が、裕美子にはあった。
うっすらと林檎色に染まった彼女の頬には、涙がじわりと伝っていた。
「許せなかった。自分自身が。誠一がいるのに、一瞬でもほかの人に惹かれた自分が。誠一といて、こうして楽しいのに、なのにわたし‥‥」
裕美子は両手で顔を覆った。華奢な肩が小刻みに震えていた。でも僕は、なんだか手を差し伸べる事が出来ずにいた。上手く言えないけれど、怖かったのだ。
「誠一が絶対だと思ってた。誠一といたら、絶対に幸せだったから。誠一が好き。そして、そんな自分が、誠一を好きなそんな自分が好き。そんな自分でいたい‥‥明日は好きだと思う。でも、あさっては? その次の日は? ひと月先は? 1年後は?」
次第に裕美子の肩の震えが大きくなり、一気に語気が険しくなっていったかと思うと、今度は憑き物が落ちたようにか細い声で、裕美子は言った。
「誠一のコト、心の底から好きなのに、好きで好きで仕方がないのに、誠一もわたしのコト好きでいてくれてるの分かってるのに‥‥なんでこんなに不安なんだろ?」
今の瞬間を留めておくことなんて出来るんだろうか。
「時間は流れているから‥‥もう帰ってこないから、だから、今がとても大切だと思えるんだよ」
懸命に言葉を探しながら話した。
「そりゃあ、すべては変わってゆくけど、でも‥‥」
そして僕は腕時計で時間を見た。
「昼の3時35分、25秒。僕は今のこの瞬間の気持ちを絶対に忘れない」
すんすんと洟をすすっていた裕美子のようやく泣き止んだ黒目がちの瞳がまた潤み始めた。
「上手く言えないけど、結局さ」と、僕は裕美子の髪を撫で、柔らかく言った。
「全ては、自分の気持ち次第なんだよ。次の瞬間のことなんて、誰にも分かりゃしない。でも、それでいいんだと思う。人って結構いい加減だったりもろかったりするけど、でも、だからこそこの一瞬一瞬をちゃんと信じたいって思うんだよ。自分の気持ちをさ」
とつとつと語るそれらの言葉は、自分に言い聞かせるようでもあった。ほんのさっき、裕美子を信じきれていなかった自分に。
「誠一‥‥」
「裕美子、結婚しようか」
気が付いたら、口を突いてその言葉が出ていた。素直な気持ちだった。結婚なんて考えた事もなかったけれど、裕美子となら、きっとうまくいく。なぜか僕は確信に満ちていた。別に、紙切れ一枚の契約で裕美子を縛るつもりで言った訳じゃない。率直に、結婚したいと思った。
一瞬茫然として僕の顔を見ていた裕美子だったが、ふと我に返ったように頭を僕の胸板に寄り掛からせた。細い吊り橋がぐらりと揺れた。裕美子は僕の懐に顔を埋め、大声を上げて泣き始めた。
雪はいつしか止んで、雲の隙間からうっすらと光の柱が遥かな山に落ちているのが見えた。
あれから三ヶ月が経った。
式は、小さなチャペルで近しいひとたちだけを招いてささやかに行うことにした。結婚後も仕事を続けたいという裕美子の希望もあったし、僕も結婚したら仕事を辞めるなんてナンセンスだと思っていたから、僕たちは今の生活をそのまま続けることになった。つまり、仕事場が離れている関係上、別居婚という形になる。週末だけ会える。
その日、僕は裕美子と連れ立って、ハンズに式のインビテーションカードを物色しに来ていた。裕美子がくさび模様で囲んだあっさりしたデザインを選んだ。
帰るエスカレーターの途中、あるフロアでペットフェアをやっているのを見掛けた。
「ちょっと見ていく?」
いかにも立ち寄りたそうな裕美子の好奇の視線に気付いて、僕は言った。
フロアに入ると裕美子が何より注目したのは、意外にもくらげだった。
「ほらほら、かあいー」
裕美子が嬉しそうに、大きな水槽の中でゆらゆら揺れている小さなくらげを指差した。蛍光灯の白い光を浴びて滑らかに輝く半透明の身体を微かな水の流れに委ねている。なぜか彼らが幸せそうに見えた。
僕はあまり可愛いとは思わなかったけれど、裕美子の希望で小指の先ほどの赤ちゃんくらげを二匹買った。安かった。金魚すくいのようなビニール袋に入れてくれる。
帰る道すがら、助手席の裕美子は飽きることなく、手に掲げた袋の中で漂う2匹のくらげを見ていた。ときどき指先で突付いては、ふふふ、と、涼やかに笑う。
通りの枝垂れ桜が風で柔らかく揺れて、春をばら撒いている。細かな花びらが一枚、また一枚と、フロントグラスを滑っていく。昼間はすっかり暖かくなった。
「大きくなったら、コイツら、コドモ出来るかなぁ?」と、裕美子はビニール袋を掲げ、口許を綻ばせる。
「さあ‥‥」と曖昧に答えて、僕はふと疑問を抱いた。
「‥‥くらげって、オスとかメスってあるのかな?」
すると裕美子は吹き出して、首を傾げる。