未歩は何も言わずに僕の隣に腰を下ろした。華奢な肩が細かく震えている。
「大丈夫か?」
「たまにね、こういう悪戯があるの。気にしないで」
彼女の声は冷たかった。他人事のような物言い。だが、画面の中で『未歩ちゃん』と呼ばれていた女性は明らかに当の本人である。中年男との上下関係、事務所から送られてきた郵便物、朝の人気番組の大抜擢・・・勝手な想像が脳裏を駆けめぐる。
彼女はローテーブルの表面を見つめるばかりだった。本来なら、そこには彼女が煎れたコーヒーで満たされたコーヒーカップが置かれていたはずなのだ。僕の軽はずみな好奇心が全てを台無しにしてしまった。だが、誰がこんな展開を予測できただろうか。僕は彼女の横顔を盗み見るしかなかった。彼女を抱きしめて慰めてあげたい。
(未歩・・・)
今は何をしても拒否されそうな気がした。せっかく再会したのに、これ以上気まずい思いはしたくなかった。
「そろそろ帰るよ。また・・・」
気を利かせたつもりだったが、これは逆効果だった。僕の言葉に彼女がキッとこちらを向いた。沈黙が打ち破られた。
「ヒデ君、このまま帰るの?これを見て、このまま帰っちゃうの?」
大きく見開いた瞳。吸い込まれそうな綺麗な瞳に大粒の涙が溜まっている。
「ヒデ君は未歩の味方でしょ?」
彼女の口癖。僕と彼女の大事な約束事。迷うことなく答える。
「決まってるだろ。未歩は僕が守るよ」
未歩が抱きついてきた。
「ヒデ君っ!」
ふんわりと魅惑的な香水の香り。胸の柔らかな感触。成熟した大人の身体。
「未歩」
抱きしめて髪を撫でてやる。彼女の細い腕が僕の首に回される。彼女の身体が甘えるように密着してくる。彼女は僕を求めている。あれほど恋い焦がれた彼女が僕を。理性が飛びそうになる。
「・・・未歩、ダメだよ」
やんわりと距離を置く。社会の荒波で刻まれてしまった溝を、このまま勢いで埋めてはいけない。埋めるならきちんとした形で埋めたいのだ。彼女は優しく微笑んだ。愛しき幼馴染みはいつも僕の気持ちを大切に汲み取ってくれる。
「・・・うん。でも、少しだけ甘えさせて」
甘い時間が刻まれる。悲しみの氷を2人で少しずつ溶かしてゆく。官能的な胸元の谷間、白い太もも、唇、髪、そして彼女の体温。形の良い顎に手を当てて、少しだけ上を向かせる。彼女はすぐに僕の意図を察して目を閉じた。拒む気配は一切ない。孤独な人気者。大勢のファン、大勢の取り巻きがいても、誰ひとり彼女を理解する人間がいない虚しさ。久しぶりに再会した幼馴染み。そして悪夢の再現。
『ヒデ君は未歩の味方でしょ?』
幾度となく聞かされた言葉。そう、彼女には昔から味方なんていないのだ。友達も親も先生も、みんな彼女を利用しようとするだけだった。社会人になっても何も変わらない。むしろ状況は悪化している。
『ヒデ君は未歩の味方でしょ?』
唇を重ねる。しっとりと艶めかしい感触。懐かしいキス。彼女の目から涙が溢れ出す。細い両手で僕の身体にしがみついてくる。唇を離すと、今度は彼女の方からキスを求めてきた。もちろん、僕はそれに応えた。
キスを繰り返し、髪を撫でながら抱きしめていると、未歩は僕の腕の中で眠ってしまった。疲れていたのだろう。朝も昼も夜も休まることのない存在となってしまった彼女。ギリギリの線で頑張っていたのに、気を許して部屋に招いた幼馴染みに屈辱の姿を見られてしまった。彼女の心労、消耗は僕の想像を遙かに超えているだろう。自分の妄想で体調を崩し、鬱病と診断された自分が情けなく思えてくる。
未練がないと言ったら全くの嘘になるが、このまま彼女を抱いているわけにもいかない。彼女をソファに寝かせて、身体を冷やさないように手近にあったブランケットを掛けてやる。可愛らしい寝息。天使のような寝顔。
(今日は帰ろう)
彼女のアドレスが分からないので、手帳の紙を破って連絡先とメモを残した。身支度をして、ふとラックに置いてあるDVDプレーヤーに目が止まる。中には先ほどのDVDが入ったままだ。リモコンを操作して問題のDVDを取り出す。
このままではいけない。未歩の『敵』を暴いて報復するのだ。僕は彼女の唯一の味方なのだから。
メモにDVDを借りる旨を書き足す。どうしても嫌ならすぐに返せばよい。最後に彼女の頬にキスをして部屋を出た。
帰宅すると、すぐにDVDを再生した。未歩の家で見たシーンは早送りする。何度も見たくない。
『へっ、へっ、未歩ちゃん、もうイッちゃったの?エッチだねー』
『お願い・・・抜いてください・・』
未歩が泣きながら懇願する。バイブを入れている男の顔をじっくりと観察する。下品な中年男。彼女に聞けば分かるだろうが、彼女は僕を巻き込むまいとして決して教えてくれないだろう。幼馴染みの勘である。
辛いが、まずは最後まで見よう。手がかりになるようなものが見つかるかもしれない。しばらく、中年男のバイブ責めが続き、未歩が何度も果てる。見ている内に沸々と怒りが湧いてくる。繊細な箇所を執拗に激しく刺激する男の後頭部をバットで殴りつけたかった。
『未歩ちゃん、今度は僕ちゃんを気持ちよくさせるんだよ』
そう言って男は未歩の口に自分のモノを無理やりねじ込んだ。嫌悪感と臭気で顔を歪ませながら、手足の自由が封じられている彼女はフェラチオを強要させられた。
『未歩ちゃんにしゃぶってもらえるなんて幸せだー』
未歩は目を閉じ涙を流してフェラチオをしている。
『いくよ!オラッ!』
男はそのまま未歩の口の中へ射精した。未歩がゲホゲホと咳き込む。直視できない。
『ふぅ。この雌豚が。可愛い顔してエロ過ぎるぞ!』
驚いたことに男はいきなり未歩の頬を張り始めた。
『痛い!やめてっ!』
たちまち真っ赤に染まる彼女の頬。10回くらいでようやく収まる。うつむく未歩。男は大きく肩で息をしている。そしてすぐに今度は猫なで声に戻る。
『ごめんね、未歩ちゃん。ごめん、本当に。そんな気はなかったんだよ』
未歩は沈黙を守る。
『だからさ、お詫びに入れてあげるね。いいでしょ?』
彼女の目が恐怖で大きく見開いた。その反応から察するに、男の申し出が彼女の想定外であることは明らかだった。
『いやっ!約束が違います!それはしないって!』
案の定、男は彼女との事前の約束を破ろうとしているらしい。男は彼女の言い分を聞くつもりはないようだ。
『でもさ、未歩ちゃん。これだけグチョグチョに濡れててさ、それはないんじゃない?いっぱい気持ちいいことしてあげたじゃん。いっぱいイッたでしょ?』
男の指が未歩の股間の辺りをまさぐっている。未歩は悶える。
『お願い、やめて・・』
『未歩ちゃん、泣かないでよー。そんなことばっか言ってると仕事回さないよー。君だっていつまでもチヤホヤされるとは限らないよ。桜ちゃんとか、希美ちゃんとかいるし』
未歩は黙ってしまった。彼らの関係がぼんやりと浮かんできた。テレビ局の人間だろうか。朝の人気番組の大抜擢に関わった人間だろうか。桜、希美・・・どこかで聞いたような・・・
『どうするの?入れて欲しいの?』
男が迫る。未歩は顔を背ける。男の手が彼女の顔に伸び、怯える彼女の顔を正面に向けさせた。
『ほらっ、あのカメラに向かって言ってごらん』
未歩がこちらを見る。
『早く、言え!』
男が怒鳴る。何度もこういうことを繰り返している人間の声だ。
『言わねえと、仕事なくなるぞ!干すぞっ!』
観念したように彼女はそっと目を閉じた。
『・・・入れてください』
弱々しく掠れた声。男は待ち構えていたように、身動きの取れない彼女の身体に覆い被さり、腰を振り始めた。
『おお、気持ちいいよー、最高だよー』
『いやぁぁ・・あっ・・あぁぁ・・・』
唇が噛み切られ、血の味がした。もちろん、僕の血だ。
『ひっ!ひっ!おぅ・・いくぞ!』
おそろしく早漏気味の男は腰を振り出して数分で果てようとしていた。
『いやっ!外に出して!お願い!お願い!』
未歩は狂ったように足掻く。だが、抵抗虚しく、男は未歩の中に射精した。
『酷い!酷すぎます!』
『だって仕方ないだろ!あんなに動かれたら気持ちよくなっちゃうんだからよ!』
未歩の抗議に逆ギレした男は、裸のまま画面の外へ消えた。そしてしばらくひとり泣きじゃくる未歩のシーンが続く。とりあえず苦難は去ったとホッとしたのも束の間。先ほどの男と違う男が画面に現れた。男は何の躊躇いもなく、未歩の股間に手を伸ばす。
『あーあ、下田の奴、中に出しやがったのか。汚ねーな』
「こいつ!?」
僕は思わず声を上げた。新しく現れた中年男は、朝の番組でいつも未歩の横に座っているコメンテーターの蒲田だった。
蒲田は朝の番組だけではなく、他にもいろいろな番組に出演しているコメンテーターだった。ネット上では彼に関する黒い噂が絶えず、常に批判的な評価をされている人物だが、茶の間では誠実で物静かなキャラクターで売り出していた。その蒲田が未歩の股間をまさぐっている。僕は呆然と成り行きを見つめた。
『おい、シャワー浴びてこい』
蒲田はそう言うと、未歩の拘束を解き始めた。
『まったく下田のバカ野郎が!』
テレビの出演時とは打って変わった口調で下田を罵りながら、苛々とした様子で拘束を解いてゆく。
『おい、もう動けるだろ?』
身体の力が抜けてグッタリしている未歩に対し、鬼のような形相で怒鳴りつける。
『早くしろよ!希美ちゃんが待ってるんだからさ!』
また、『希美』という名前が出てきた。思い出せそうで思い出せない。画面の中で繰り広げられる展開が僕に冷静な思考を許さない。未歩は項垂れて立ち上がり、フラフラと画面から消えた。蒲田も後を追う。
『早くしろよ』
『はいっ』
現場の雰囲気とは場違いな軽やかなシャワーの音が聞こえてくる。
『ほらっ、ここだろ?』
『あっ!だめっ!』
画面の外で蒲田と未歩のやり取りが聞こえてくる。
『いやぁ・・そこばかり・・』
『ちゃんと洗えよ』
蒲田が画面に戻ってきた。そして服を脱ぎ、全裸になる。弛んだ醜い肉の塊。
『早くしろ!』
『はいっ』
バスタオルを纏った未歩が画面に戻ってくる。
『こんなのいらんだろ』
バスタオルがはぎ取られて、未歩が全裸になる。咄嗟に両手で胸を隠す。
『早くしゃぶれ』
そう言って、蒲田は己の醜いモノを未歩の前に突き出す。未歩は悔しそうにうつむく。
『もう・・・許してください・・』
『おいおい、ここまで来たら変わらんだろ』
蒲田はあくまで余裕の表情だ。下田と同様、こういったことに慣れている。彼らに汚された女は1人や2人ではない気がする。未歩は両手で胸を隠したまま一歩下がった。顔を上げ、蒲田を睨む。華奢な肩が震え、口元がキュッと結ばれている。彼女の心の中の葛藤が画面越しに伝わってくる。5秒、10秒・・・一触即発。
(未歩!)
先に沈黙を破ったのは未歩だった。
『帰ります!』
抑圧されたものが一気に弾け飛ぶように、未歩は文字通り跳ねるように画面から消えた。彼女の思わぬ行動に蒲田が呆然としている。
『・・・おい』
蒲田の手が力無く上がったが、画面の外でガチャという音が聞こえると同時に、部屋は静まりかえった。部屋に取り残された蒲田はハッと我に返り、裸のままカメラに詰め寄った。画面一杯に蒲田の顔が広がる。激しい怒りを含み、真っ赤に染まっていた。
『未歩!このビデオ、お前のマンションに届けてやる。いいか、変な気を起こすなよ!俺に逆らったら、ただでは済まんぞっ!』
ここで画面が真っ暗になった。このDVDを送りつけた犯人が分かった。蒲田も、まさか赤の他人に自分の醜態を見られているとは思わないだろう。
(それにしても・・・)
内容は想像を絶していた。あまりに非現実的で感覚が麻痺している。深く深呼吸する。DVDをプレーヤーから取り出す。最初の男が下田、そして蒲田。僕はコイツらを絶対に許さない。
眠れない夜を過ごし、翌朝の未歩の番組を見る。彼女は相変わらず笑顔で番組を盛り上げ、隣の蒲田もいつも通り隣に座っていた。番組内での2人のやり取りに不自然さはなかった。
『ヒデ君は未歩の味方でしょ?』
未歩の声が頭の中で再生される。
「決まってるだろ。未歩は僕が守るよ」
僕は1人呟いて唇を噛みしめた。
番組が終わると特にすることがなくなった。今日も鬱病休暇である。未歩の件はすぐにでも行動を起こしたいが、今の状態では何もできない。とにかくもう一度、彼女と会いたい。然るべき人間に相談すれば、このDVDは強力な武器になるだろうし、打開策も見つかるはずだ。まずは未歩の考えを知りたい。
(今までだって何度も同じような恥辱を・・・)
今の状況を彼女が受け入れているとは考えられないが、事情を知らない僕の独断で勝手に動いて、彼女に余計な心配を掛けさせたくない。
昨日、彼女は途中で寝てしまったので、今の彼女の連絡先は聞いていない。直接彼女のマンションへ行くか、部屋に残した連絡先に彼女が電話かメールをしてくるのを待つしかない。もちろん、彼女の勤めている会社の代表番号くらいなら分かるが・・・
(さすがに会社に電話するわけにいかないし)
そうして悶々と午前中を過ごし、昼は駅前の繁華街へ食事に出ることにした。
食事中に非通知で電話があった。未歩からだった。
(メモを残しておいて良かった・・・)
彼女は僕が何かを言う前に懇願するような声で言った。
「ヒデ君、あれ返して欲しいの」
彼女の声には緊張と疲労が混じっていた。DVDの内容を思い出して胸が苦しくなった。
「ごめん。悪気はなかったんだ。すぐに返すよ。今夜、会えるかな?」
「うん、昨日のマンションに来て。8時でいい?」
「いいよ」
ホッと溜息をついた。どうせ今夜行くつもりだったから、好都合だった。
食事を終えると、吸い込まれるように未歩のマンションへ向かった。繁華街を抜け、高級住宅街へ。こんな時間に行っても意味がないことは分かっている。約束の時間まで、たっぷり7時間ある。だが、あんな映像を見てしまったら、のんびり待ってなんていられないのだ。早く未歩に会いたい。早く・・・
エントランスの前でウロウロしていると怪しまれそうなので、彼女のマンションの周りをぐるりと回ることにした。大きな敷地を一周し、元の場所へ戻る。今度は逆回りに回る。平日の昼間の閑静な住宅街。何も起こらない。自分の存在と行動だけが浮いてしまっている。
(出直すか)
そう思って、最後にもう一度辺りを見回す。前方からタクシーがやってきて、エントランスの前で停止した。支払いを終えてタクシーから降りた男を見て、心臓が止まりそうになった。
(!!!)
下田だった。実物を見るのは初めてだが、間違いない。未歩を犯した男。
(何でこいつが?!)
一瞬目が合ったような気がしたが、下田はこちらを意識する様子はなく、そのまま何事もないように未歩のマンションのエントランスへ消えた。
(同じマンションに住んでいるのか?)
さすがにこのまま追うわけにはいかなかった。エントランスのインターホンパネルから先は追えない。下手に動くと疑われる。下田のことは後で未歩に知らせておこう。
それからすぐのことだった。先ほどと同じような位置に新手のタクシーが停まり、またもや驚くべき人物が姿を現した。
(神崎希美!!!)
未歩の最大のライバルと噂される新人女子アナ、神崎希美だった。
(そうか・・・下田や蒲田が言ってた『希美』って彼女のことか)
彼女は新人ながら、同局の夜の人気番組を担当している。この抜擢も、朝番組の未歩の大抜擢に劣らないサプライズだった。1年先輩の未歩の人気は既に全国区だが、希美を支持するファンも数多くいて、タイプの異なる2人の若手の今後の活躍が期待されている。
(なぜ、彼女がここに?)
平日の真っ昼間のほぼ同じタイミングに、未歩が住んでいるマンションに姿を現した2人。時間帯にしろ、場所にしろ、偶然の一言では片づけられない。何らかの理由で2人が待ち合わせたのは間違いなさそうだ。おそらく下田が呼びつけたのだろう。
希美はこちらを気にする様子もなく、エントランスへ消えていった。無邪気で明るいキャラクターで人気の彼女だが、とても同一人物とは思えないくらい、彼女の表情は沈鬱に見えた。このマンションのどこかの部屋で下田が希美を招き入れ、そして希美も未歩と同様、下田の慰み物になってしまうのだろうか。想像しただけで反吐が出そうだった。
高ぶる気持ちを抑えて、駅前の繁華街のカフェで休むことにした。それから悶々とした思いのまま、本屋を巡り、ゲームセンターで時間を潰した。これほど時間の経つのが遅く感じたのは久しぶりだった。未歩からメールがあったのは、夜の7時半だった。
『もうすぐ家に着きます。8時に待ってるね』
下田と希美のことは会ってから話すことにした。返信のボタンを押して、簡単に返事を打った。
(それにしても・・・)
僕は少しだけ頬を緩めた。これでようやく彼女との連絡手段が出来た。メールだけでもいい。細い糸でも彼女と繋がっていたいのだ。早速彼女のメールアドレスを登録した。
喉が渇いていたのでコンビニに寄ってミネラルウォーターを買った。ゴクゴク飲みながら、未歩のマンションを目指す。夜になってお洒落にライトアップされたエントランスに着いた。すっかり見慣れた光景だが、昼と夜では雰囲気が随分違う。その時、携帯電話にメールの着信があった。インターホンパネルに近寄りながら、メールを見る。送信元は先ほど登録したばかりの未歩のアドレス、そしてその内容を読んで飛び上がった。
『たすけてかぎあいてる下田901』
慌てて打ち込んだらしいメールには句読点もなく、それが逆に緊急性を感じさせた。状況は容易に想像できた。この短い文で必要なことは全て分かる。下田の名前が入っているのは、僕がDVDを見たことを前提で知らせているからだろう。下田はあれからずっとこのマンションに残っていたのだ。希美と会った後、未歩の帰りをずっと待っていたのかもしれない。もしかしたら、希美との待ち合わせに未歩の部屋を使ったのかもしれない。無断で合鍵を作るくらい、下田ならやりかねない。あの醜い男が未歩の部屋にいると思うだけで、気分が悪くなった。
(どうする?)
部屋の鍵は空いていても、エントランスのロックが外せない。インターホンパネルを押せば下田に気付かれてしまう。気付かれてしまっては、何をされるか分からない。警察に通報するには情報不足だし、未歩もそれを望まないだろう。迂闊な行動は取れない。今、僕が考えられる唯一の行動は、このマンションの住人の帰宅を待つことだ。
(誰か来てくれ!)
祈る。神を信じていない僕が必死に神頼みをする。爪が皮膚に食い込み血が流れるくらい強く祈る。ようやくマンションの住人がエントランスに姿を現したのは祈り始めて10分ほど経ってからのことだった。これでもラッキーだ。夜の8時という、社会人の帰宅時間帯だったことが幸いした。
「すみません。鍵、落としてしまって」
「えっ?」
「夜だから、連絡がつかないんです。明日、管理人に電話しないと」
苦しい言い訳と必死の演技。スーツ姿の無表情な男性は僅かに顔を曇らせたが、エントランスのロックを解除して何も言わずに僕を入れてくれた。セキュリティの観点では、彼の行為は大いに問題だが、この時ばかりは正に救世主だった。2基のエレベーターのうち、1基がゆっくりと降りてくる。男に続いて乗り込む。男は5Fを僕は9Fのパネルを押した。
チーンと場違いな音が鳴った。9Fのエレベーターホールから901のドアの前まで音を立てないように移動した。901のドアの下に靴べらが挟んであり、隙間ができていた。このマンションのドアロック構造は特殊なので、咄嗟の判断でこうしたのだろう。
無意識に唾を飲み込む。部屋の中には下田がいる。小太りの中年男。素手の喧嘩であれば問題なく勝てそうだが、相手は武器を持っている可能性がある。これだけ大胆なことをしているのだから、それなりの用心はしているだろう。それに最悪のケースとして、未歩がメールで誰かに助けを求めたことを既に知ってしまっている可能性もある。その場合は待ち伏せられているということも考慮しなくてはならない。
細心の注意を払って玄関ドアをゆっくりと開け、靴べらを取り除いて音を立てないように中に入る。照明は点いたままで静かである。フワッと優しい香りが鼻孔を擽る。念のためドアを内側から閉める。玄関の様子は昨日訪れた時と何も変わっていない。変わったことと言えば、下田の物と思われる男物の靴が一足と・・・
(ん?)
僕は男物の靴の隣に並べられたミュールに気付いた。それが未歩の物ではないことと、このミュールの持ち主が希美であることを直感で察した。
(下田と希美は最初からこの部屋にいたのかもしれない)
非常時なので土足のまま上がる。奥の方から女の悲鳴のような声が聞こえてくる。気持ちを落ち着けて、部屋の間取りを思い浮かべる。向かって正面のドアの先がリビングルーム、左右のドアがトイレと浴室。女の声はリビングから聞こえてくる。
下田はどこにいるのだろう。目を閉じ、耳に全神経を集中させる。リビングから聞こえる声。それ以外にウィーンという甲高い機械音。自分が唾を飲み込む音。エアコンの稼働音。浴室とトイレからは何も聞こえない。・・・リビングだ。
短い廊下を亀のようにゆっくりと進み、ドア越しにリビングの音に耳を澄ませる。先ほどよりかなり鮮明に聞こえてくる。
「あっ、あっ、あぁっ!」
未歩の声だ。悪夢が甦る。
「未歩ちゃん、良い声出てるじゃない」
男の声。下田だ。
「希美ちゃんもどんどん声だしてよ。ほらっ」
「いやぁぁぁ!!!」
こちらは悲鳴に近かった。どうやら未歩と希美が下田にちょっかいを出されているようだ。一刻の猶予もない。意を決してリビングのドアを慎重に開ける。下田の幅の広い背中がまず目に入った。その向こうに2人の女性が下田と向き合った格好で見える。幸運にも下田の死角にポジションを取ることができた。
「あぁ・・許してください・・・」
「だーめ、だめ。希美ちゃんのアソコ、グチョグチョだよ」
下田は夢中になっている。良く見ると、横に並べられた2脚の椅子に全裸の未歩と希美がそれぞれ拘束されていて、希美はアイマスクをさせられていた。下田が希美の股間に顔を埋めている。一方、未歩の股間には黒光りしたバイブがズッポリと埋め込まれて、ウィーンウィーンと蠢いている。涙で目を腫らした彼女の姿が痛々しい。こちらはアイマスクをしていない。未歩は僕に気付いていないようだ。
(未歩!未歩!)
項垂れていた未歩が僕の心の叫びに反応し、わずかに顔を上げた。少し遠目だが、しっかりと2人の視線が絡み合った。僕は全身に力が漲るのを感じた。いきなり下田に襲いかかる前に彼女の目を見ておきたかったのだ。そうすれば何だってできる。彼女の目にも輝きが戻り、僕に向かって小さく頷いた。この状況で100%僕を信じてくれている目だ。
下田がチュパチュパと希美の股間を舐める音と、未歩の股間のバイブの無機的な音が部屋中に響いている。リビングの入り口に身を潜めている僕と下田の距離は数メートル。もう一度、未歩を見る。彼女は股間の強烈な刺激に悶えながら、僕を見つめ返す。
『ヒデ君!お願い!助けて!』
意を決して体勢を整える。静かに距離を縮め、下田の背後に立つ。完全に無警戒だった。己の欲望を満たすことに必死のようだ。アイマスクをさせられた希美は唇を噛みしめて耐えているが、時折喘ぎ声を漏らしている。彼女の苦悶の表情を正視できなかった。彼女の番組を何度か見たことがある。陽気で無邪気で誰からも好かれるようなキャラクターを演じていた。彼女の大勢のファンは目の前の光景を想像できるだろうか。
希美の股間から離れようとしない中年男の肩をポンポンと叩く。ビクッと身体を震わせ、飛び跳ねるようにこちらを向いた下田の額を渾身の力で殴りつける。グェと奇声を発した下田は後ろに大きく仰け反り、同時に希美が悲鳴を上げた。下田の腕を掴み、2人の女から引き離す。もう一撃食らわせようと拳を固めたが、その前に下田は脆くも崩れ落ちて、ビクともしなくなった。打撃とショックで失神したようだ。
下田が身動きしないことを確認してから、僕は2人の拘束を解き始めた。まず最初に未歩のバイブを抜く。
「あぁ・・あっ・・くぅ」
未歩が悶える。信じられない太さのバイブが徐々に姿を現す。愛液が飛び散る。
「未歩、ごめん。もう少しだよ」
「あぁ・・うぅ・・だめぇ・・」
ボツボツとした異様な突起が彼女の股間を極限まで刺激する。未歩の太ももが痙攣している。もともと敏感な彼女の身体は既に限界なのだろう。
「いやぁぁ・・・あっ!あんっ!」
彼女は全身を震わせながら、目を閉じ、眉間に皺を寄せていた。そしてあと半分というところで、未歩の身体がビクッビクッと跳ね、大きく仰け反った。僕は自分の手で握ったバイブを見つめた。バイブ嫌いの彼女を、あろうことにかバイブで昇天させてしまったのだ。彼女の身体はまだフルフルと震え続けていた。
「・・・ごめん、大丈夫?」
「はぁ・・はぁ・・ヒデ君、スイッチ・・スイッチ・・・とめ・・て」
「えっ?」
愚かな僕はスイッチを止めずに無理やり極太バイブを抜こうとしていたのだ。不注意だった。
「ご、ごめん」
慌ててスイッチを切り、バイブをゆっくりと抜く。愛液が溢れ出す。未歩は頬を赤らめて、俯いた。
「恥ずかしい・・・」
「ごめん」
お互い赤面しながら、僕は未歩を椅子から解放した。彼女は消耗しきった様子だったが、立ち上がって無言で僕に抱きついた。僕もしっかりと彼女を抱きしめた。涙が溢れてきそうだった。
「ヒデ君、ありがとう。信じてた」
柔らかな髪を撫でながら、僕は彼女の温もりを感じていた。
「誰・・・ですか?」
不安げな希美の声を聞いて、未歩が説明する。希美はまだアイマスクをされたままだ。
「希美ちゃん、私の友達が助けに来てくれたの」
「そう・・ですか」
希美はホッと全身の力を抜いたようだった。
「じゃあ、彼女は私がやるね」
「うん」
僕は彼女達に背を向けて、気を失っている下田の顔面を蹴り飛ばした。殺しても飽き足らない男だ。念のため、未歩を拘束していたロープで彼を縛り上げた。
下田や蒲田、さらに今後明らかになるであろう共犯者達の『処理』については、以前にネットで知り合ったグループに委ねることにした。この手の処理のプロ集団で、強烈な正義感を持った過激派である。実績は十分ある。たとえ警察に通報したところで面倒なだけでたいしたこともしてくれないだろうし、マスコミが自分達の業界のスキャンダルを報道するはずもない。つまり、通常の手段では罪に相応しい罰を受けるとは思えないため、少々手荒な手段を選んだのだ。泣いて詫びて済む問題ではない。彼らは肉体的にも精神的にも極限にまで追い込まれることになるだろう。それによって社会的地位を追われ、家族を失い、人生の全てを失ったとしても彼らに同情することはないだろう。
シャワーを浴びて服を着替えた2人の美女がリビングに戻ってきた。希美は何度も僕に礼を述べた。未歩と並び称される人気者の謙虚な態度に好感を持った。昼間、マンションの前ですれ違ったことには気付いていないようだった。
「希美さん、今夜は仕事大丈夫なんですか?」
「ええ、今日は・・・」
彼女は曖昧に答えた。未歩と同様に、彼女もいろいろな男達の慰み物とされていたのだろう。こうして実物と接すると、息が詰まるくらいの沈殿した暗い影が垣間見える。
「その手のプロに相談しますので安心してください」
僕の言葉に希美と未歩はクスリと笑った。
「ヒデ君、『その手のプロ』ってなあに?」
彼女達には僕が冗談を言っているように聞こえたのかもしれない。からかわれていると気付いて、僕はわざとそっぽを向いて見せた。
「あっ、うそっ!ごめん、ヒデ君!信じてるよ!」
「いいよ、もう」
「うぅ、希美ちゃん、助けてっ」
無意識に暗い話題を避けて、彼女達の話を聞いた。異例の大抜擢の裏で苦悩する彼女達の話はズシリと重みがあった。獣たちのオモチャにされ、その見返りの大抜擢。その人選も彼女達の意志ではないだろう。きちんとキャリアを積むことなく、いきなり表舞台に放り出された若い2人の不安と苦労は想像を絶する。そして、抜擢の見返りとして獣たちの性玩具となることを強要される日々。拒否すれば干されてしまう。負の連鎖が止まらない。
「あっ、思い出しました。ねえ、未歩さん、岩瀬さんって・・・」
いつもの明るさを取り戻した希美が微笑んだ。未歩が彼女の言葉に頷いた。
「そうだよ、この人のこと」
「そうなんだ」
「何の話かな?」
会話についていけない僕に向かって、希美は悪戯っ子のような目でじっと僕を見つめた。テレビに出ている時とは全く違った彼女の魅力に僕はドキリとした。思わず吸い込まれそうになる。驚いたことに、一瞬だけ、未歩の存在が僕の頭から消えて、希美と2人きりの空間が生まれた。それほど蠱惑的な目だった。
「希美ちゃん」
未歩の声で彼女の支配が解けた。まるで魔法を掛けられたようだった。希美は諦めたように可愛らしく肩をすくめた。
「幼馴染みなんですよね。いいなあ、こんな素敵な幼馴染みの人がいて・・・」
そう言って、また見つめてくる。彼女の真意は掴めなかったが、不快ではなかった。頬を緩めると、未歩が唇を尖らせた。
「ヒデ君!いやらしい顔になってるよ!」
そう言って、彼女はいきなり僕に抱きついた。細い腕が僕の首に絡んだ。
「ねえ、キスして。希美ちゃんの前で」
急なことに驚いて、思わず希美を見る。彼女はニコニコしているだけだ。
「急に何だよ」
「ヒデ君、お願い・・・」
彼女がそっと目を閉じた。人前でキスをするのは抵抗があったが、ここで未歩に恥をかかすわけにもいかなかった。唇を重ねると未歩は嬉しそうに微笑んだ。
希美を見送った未歩がリビングに戻ってきた。
「やっと、2人きりだね」
嬉しそうに微笑む彼女が愛おしい。
「さっきは何だったの?」
希美の前でキスしたことである。未歩らしくない大胆な提案だった。
「ああ、あれね。希美ちゃん、ちょっと危ない子だから。ごめんね」
冗談とも本気とも取れない調子だった。それに意味もよく分からない。首を傾げている僕の頬に彼女がキスをしてきた。
「本当にありがとう」
「いいよ」
「帰ったら下田の靴と希美ちゃんのミュールがあるんだもん。パニックになっちゃって」
「あいつがここに来たのは初めて?」
「うん。いつもホテルだったから。でも、どうやって入ったんだろう?」
「何とでもなるよ。鍵を持っていない僕だって、こうしてここにいるんだし」
カーテンを開けると、夜景が目の前に広がった。真っ黒なキャンパスに宝石が散りばめられているようである。
「ねえ、ギュって抱きしめて」
僕は言われるとおりに抱きしめた。昨日、久しぶりの再会をしたばかりというのに、驚くべき進展である。
「僕なんかでいいのか?」
鬱病休養生活中のサラリーマンと国民的人気を誇る女子アナ。彼女はわざとらしく唇を尖らせる。
「嫌なの?」
「嫌じゃないよ」
未歩が身体をすり寄せてくる。大きな胸の柔らかな感触が気持ちいい。彼女の鼓動と僕の鼓動がテンポを合わせた。未歩の潤んだ目が僕に向けられる。
「私はね、昔からヒデ君一筋だったよ」
大きな瞳。嘘のない瞳。
「ヒデ君だけだもん、未歩の味方は」
重い言葉だった。彼女の苦悩の人生を凝縮した言葉だった。彼女の髪を優しく撫でた。彼女は甘えるように僕に身体を預けた。
「・・・ずっと一緒にいてほしいな」
彼女の気持ちは素直に嬉しかった。世間は許さないだろうが、僕は彼女の気持ちをきちんと受け止めたい。
「じゃあ、これからもよろしくお願いします」
そう言うと彼女はプッと吹き出した。
「なあに、それ。ヘンだよー」
2人の唇が重なる。もつれるようにソファーに倒れ込む。お互いに服を脱がし合って、じっくりと愛撫を重ねて、1つになる。未歩の頬に涙が伝う。時間が経つのを忘れて、何度も愛を交わす。ようやく宝物を手に入れた。愛しき幼馴染み。
僕だって、未歩一筋だったよ・・・
映画のようなハッピーエンド。いや、これからが本当の幸せなのかもしれない。