チェロとバイオリン1

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チェロとバイオリン1
2021年07月17日 10時29分
さんじのおかず

1.

 夕刻を迎えた都会は、連なるビルが鮮やかなオレンジ色に染め上げられ、この街の谷底にある様なスターバックスのウィンドウから上空を見上げると、ちっぽけな青空が名残惜しそうに覗いていた。
 向かいのビルに反射した夕日が射し込む店内では、人々が廻りを気にする事もなくざわめき続けている。さほど広くもないスターバックスの中は、既に黒装束の団員達で埋め尽くされていて、席にあぶれた何人かが外でテイクアウトのコーヒーを傾けていた。皆、開演前の緊張を隠せないようだ。
 紘一はリハーサルが終わるや否やいち早くここに滑りこんで、運良く窓際のソファーを陣取ることができた。暖かいモカの香りが、緊張した神経を休めてくれる。今夜はこのビルの中にあるホールで、紘一の所属しているアマチュアオーケストラ―――鹿取市民オーケストラの定期演奏会が開催される。
「‥‥でも、ここのオケはいいですよぉ」
 斎藤が紘一に話し掛けた。
「前のオーケストラは搬入からモギリまで全部団員でやってたんですから。チケットなんかみんな自腹でしたよぉ、ホントに」
「そうそう‥‥。アマオケは本来、そういうのが正統派なんだけどね」
 冗談めかして紘一は相槌を打った。
 鹿取市民オーケストラは基本的にはアマチュアのオーケストラなのだが、市の資金も一部投入されていて、他に協力してくれる団体もあり、運営自体は公共のオーケストラと遜色はない。違っているのは団員や常任の指揮者は皆、無給ということぐらいだろう。
「でも、ホント、敷居が高いっスよ。ぼくなんかよく弾かせてくれるなあって‥‥オーディションの時なんかもう震えちゃって震えちゃって。音なんてカスカスでしたもん」
「そんなの俺だって同じさ。チェロなんかまともに弾けないのに人数が足りないからって‥‥ティンパニの山下だってオーディションなしだったんだぜ」
「ああ‥‥そうなんですかぁ。やっぱり」
 斎藤と紘一はニヤニヤと笑い合った。
 山下のティンパニは、”鳴らない”ティンパニで有名だ。長い曲になると譜面を追うのに必死で、時に自分のパートを見落としてしまう。それでも代わりのティンパニが見つからないので、指揮の近藤先生は特に注意して音出しの合図を送っている。
「バスは四人居ますからねぇ。ぼくなんか戦力じゃないですけど、ティンパニはねぇ」
「山下もあれはあれで必死なんだよ。今じゃ立派なティンパニストだろ? そういうハングリー精神が俺達には必要なんだな。うん」
 もっとも、バイオリンや木管には音大出の人が多く参加していて、市民オーケストラの品位を全体的に高めていた。やはり中心になる奏者のレベルが高いと、他の団員にも緊張感が伝わって来て自然に練習に身が入るようになる。音大出は他の楽器についてもレベルが高く、大学のオーケストラ部でしか経験のない紘一も様々な指導をしてもらっていた。特に第一バイオリンの秋山ユリには―――。
「あ、ユリさんだ」
 斎藤の声に紘一は視線を巡らせた。
 白いブラウスに裾を引き摺るような黒のステージスコートの秋山ユリが、同じストバイの井浦とスターバックスに入ってきた。当然開いている席はなく、二人できょろきょろと店内を見廻している。
「あ、秋山さん。ここ、開きますからぁ」
 斎藤が引っ繰り返ったような声で秋山を呼んだ。
「あら、斎藤君。もういいの?」
「ええ。僕達もう飲んじゃいましたから。ねッ、新田さん」
 本当はまだ少し残っているのだが、紘一もユリには席を譲ろうと思っていた。急いでテーブルを片付けて、ソファを立つ。
「悪いわね、サンキュッ!」
 長い髪を後ろに束ねた秋山ユリは、少し腫れぼったい様な一重の目蓋をぱっちりと開けて、斎藤にニコッと笑いかけると、持ってきたスコアをソファに置いて、コーヒーを注文しにカウンターに立った。紘一もすれ違いざまにユリと井浦に、
「いよいよですね。リード、お願いします」
と、話し掛ける。
「うん、がんばろうね」
 秋山ユリの明るい声が、紘一の耳にいつまでも響いていた。

 昔から―――それも何と無くだが、有名な曲ほどうまく弾けないような気がする。
 公演の前半はビバルディの「四季・春」と「夏」だったが、練習量の少なさも手伝ってか、自分としてはやはり不本意な演奏に終わってしまった。
 明確な主題に助けられて、なんとか無事には終わったのだが、CDで聴く名演に少しでも近づきたいという無い物ねだりが、自分のチェロをだめにしてしまうのだろう。いや、それよりも今夜は、ユリのバイオリンの素晴らしさに圧倒された、と言うべきかもしれない。
 ほぼ満席の聴衆は咳き一つせず、コンサートマスターの華やかで透き通るような透明感のある音色に飽きることなく耳を傾けていた。光沢のあるブラウスの輪郭が照明の中にキラキラと浮かび上がり、生き生きとした弓と弦が音符の並びをシルクのような旋律に織り紡いでいく。紘一もチェロを弾きながらユリの音色につい聞き耳を立てていた。
 近藤先生も何時になく真剣な表情だ。
 指揮がオーケストラを締めくくると同時に、観客の低い吐息がどよめきのように流れ出た。5秒間ほどの空白の後、割れんばかりの拍手がホールを埋め尽くす。ユリは満面に笑みを浮かべ、軽く会釈をしながら舞台袖に向かう。ユリが見えなくなって、団員達がぞろぞろ出ていっても、その拍手は鳴り止まなかった。他の団員も興奮覚めやらず、だ。
 十五分間の休憩を挟んだ後は、後半のプログラムに入る。曲はモーツァルトの25番だ。
 皆も揃って、近藤先生も指揮台に立った。
 だが―――。
 肝心のコンサートマスターが席にいなかった。
 ストバイの井浦がきょろきょろと辺りを見廻す。
 観客もざわめき始める。
「ユリさん、どうかしました?」
 後ろでひそひそと斎藤の声が聞こえる。
 先生が指揮台を降りて舞台袖に行こうとした時、ユリが急ぎ足で出てきた。どことなく暗い表情をしていたが、足取りはしっかりしている。
(‥‥25番だからって、コンマスまでマイナーにならなくてもな‥‥)
 ユリは顔を上げないまま会釈をして、席についた。
 先生がほっとした表情で指揮棒を上げる。ユリがバイオリンを構えた。皆も直ぐに従う。
 指揮棒が一気に振り下ろされると同時に、ユリは弓を強く引き降ろした。
(‥‥なんだよユリ‥‥怒ってんのか?‥‥)
 完全にオーケストラのバランスを無視している。
 誰も眼中に無いというように、ユリはどんどん突っ走り始める。まるで自分一人で25番を弾いてやる、とでもいうように勝手に先に進んでゆく。
(‥‥おいおい、冗談じゃないぜ‥‥)
 先生が必死にユリを押えようとしている。
 ユリは指揮を見ていない。
 皆、急な展開に慌てながらも、とにかくコンマスに合わせていく。
 コントラバスが、乱れ始めた。
 四人の奏者がバラバラになってしまっている。
(‥‥斎藤のやつ、弾いてないかもな‥‥)
 指揮とオケが結びつかない。
 折角の25番が台無しだ。
 観客も拍子抜けして、どうした事かと飽きれている。普通ならスヤスヤとお眠りタイムなんだろうが、もう聞くに耐えない、とばかりに何人かが席を立った。紘一自身もチェロを置いて帰りたい所だがそうもいかない。悪夢にうなされながら、ただひたすらにチェロを掻きむしる。弾いても弾いても譜面は減らない。次々に新しいページが出てくる。
 演奏もなかなか纏まらない。
 ユリが皆に合わせる気持ちが無いからだ。
 大変な苦痛を感じながら紘一は兎に角、スコアを追う。
 気が付くと―――オーケストラの演奏は終わっていた。
 モーツァルトの交響曲25番は、ユリの姿と共に、跡形も無く消え去っていた。

 悲惨なコンサートの後の打ち上げは、まるで通夜のようだった。
 お決まりの挨拶の後は皆、押し黙ったまま杯を傾けている。
 ユリは居ない。
 誰かがユリの事を口にはするものの、出てくるのは結論の無い疑問符ばかりだ。
 紘一はいたたまれずにチェロを担いで出口に向かった。
「あ、新田さん」
 トイレから出てきた斎藤にすれ違う。
「おう、お先」
「お疲れ様‥‥でした」
「うん‥‥また、練習でな‥‥」
 紘一にはコンサート会場から姿を消したユリの行く先について、漠然とだが思い当たる節があった。
 去年の定期公演の打ち上げの後、ユリとこの近くの陸橋の上でバイオリンとチェロを遊びで弾いたことがある。ふたりとも随分酔っていて、どうしてそんな事になったのかも覚えていないのだが、笑いながらボッケリーニのメヌエットを繰り返したり、チェロとバイオリンを交換して弾いてみたりしていた。紘一のぎーぎーというヘタなバイオリンにユリは底が抜けたように笑い、通りゆく人々もそんなふたりを見て見ぬ振りで過ぎていった。夜風に吹かれながらもふたりは時間を忘れ、いつまでも陸橋の上ではしゃいでいた。
(‥‥家には戻っていないだろう‥‥きっと、まだこの街に‥‥)
 見上げたアーチ型の陸橋は白い光線にライトアップされ、大文字のAを模ったような大きな一本の橋脚に吊り下げられていた。幹線道路に大きく二分された都市部の公園を南北に繋いでいる。下から見ても人の気配は無い。最近はこの辺りにもホームレスが住み着き、何と無く物騒だが、紘一は取合えず隅々まで見てみようと、チェロを担ぎ直してセントラルブリッジを登り出した。
 緩やかな階段を登り、橋の真ん中近くまで渡った紘一はぎょっ、とした。
 何か真っ黒な物体が路面にうずくまっていた。
 解かれた黒髪が、パラパラと風に吹かれている。
「‥‥ユリ?」
 確かに、ユリだった。
 ステージ衣装の上に黒っぽいストールを被ったまま、膝を抱えて俯いている。
「‥‥う‥ん‥‥」
 ユリが言葉を話した事で、紘一は安堵した。
「どうした? こんな所で」
「‥‥ごめんね‥‥ごめんね」
 うわ言の様に繰り返す。
「もういいよ、終わったんだから」
 紘一は担いでいたチェロを立て掛けると、足元にうずくまるユリに手を差し伸べた。
「帰ろう。風邪ひくぞ」
「‥‥男の人って、いつもそう言うよね‥‥終われば‥‥終わってしまえばそれでいいの?」
 散々泣いたような擦れた声で、ユリは答えた。
「そりゃあ‥‥それで良いわけは無いさ」
 紘一は空を仰いで派手な電飾のネオンを眺めた。
 この街のネオンは、星さえも貪欲に消し去ってしまう。
「でも、何処かで終わりにしないと次に進めないだろうが」
 紘一はけんけんをするように片足でぽんぽんと跳ぶとくるっと振りかえった。
「だからさ、もう帰ろう」
「‥‥」
 ユリは返事をしなかった。
「ユリ?」
「‥‥」
「どうした? 何があった?‥‥休憩時間に、何かあったのか?」
「‥‥」
 紘一はユリに近づいて、しゃがみこんだ。
 陸橋の上は照明が乏しく、ユリの表情もよく見えない。広告のネオンの明りだけが頼りだ。
 目を凝らすと、ユリの顔はアイラインが流れ、すすけたように汚れている。
「答えろよ、ユリ。みんなにでなくても、俺には答えろよな。付き合わされた身にもなってみろってんだ」
 ユリを元気付けようと、わざとぶっきらぼうに言う。
「ごめんね‥‥そんなつもりじゃ‥‥なかったんだけど」
「どういうつもりだよ。あんなこと、普通じゃできねぇよなぁ」
「ごめんね‥‥ごめん」
「そういえば‥‥ユリ、電話してたよな」
「‥‥うん‥‥」
「電話の相手は?」
 ふうっと息を吐いて、ユリが顔を上げた。
「相手はね‥‥主人」
「‥‥なぁんだ」
 足の辛くなった紘一はやれやれ、と立ち上がって欄干に肘を突いた。
「喧嘩でも‥‥したのか?」
「ううん‥‥でも‥‥そうね。それが発端なの」
「え? ホッタン?」
「‥‥うん」
「‥‥リコン、とかか?」
「ううん‥‥でも、そうなるかも」
 ユリは自嘲しながら言った。
「どいういう‥ことなんだ?」
「先月ね。アメリカに行ったの」
「へぇ‥‥聞いてなかったな」
「ボストンフィルのオーディションを受けてきたの」
「ふぅん‥‥で、落ちたのか」
「‥‥いじわる」
 そりゃそうだろ、と紘一は流れる車のテールライトを見詰めて言った。
「そうそう、受かるもんじゃないぜ。ボストンフィルだもんな」
 一組のカップルが陸橋を登ってきた。
 紘一とユリは押し黙ったまま、カップルが通りすぎるのを待つ。
 微かに視線を感じるが、紘一は知らぬ振りをする。
「今日、家に知らせが来たの。それを主人が見て‥‥辞書と首っ引きで」
「ひでえな」
 ふん、と紘一は鼻を鳴らした。
「人の手紙を読んだのか」
「落ちたのはしかたがないわ。私が未熟だから‥‥でも、ひどいの‥‥」
「ひどい?」
「プロには成るなって言うの‥‥もう外国にも出さないっていうの‥‥わたしに‥‥バイオリンを捨てろというの」
「え‥‥そんな‥‥」
「オーディションの事は主人にも内緒にしていたから、私も悪いのだけど‥‥でももう、何もかも嫌になってしまって‥‥みんなには本当に悪い事をしてしまった‥‥感情がどんどん前に出て行ってしまって‥‥私、自分のしている事が何が何だか判らなくなって‥‥」
「アマチュアならいいっていうのか?」
「結婚した時はそれでもいいと思ってたの‥‥彼を愛していたし、彼と暮らしているだけで楽しかった‥‥でも、バイオリンから離れれば離れるほど、バイオリンが弾きたくなるの‥‥止められないの」
「どこにだってプロのオーケストラはあるぜ。今のユリだったらオーディション無しだろ?」
「‥‥嫌なの」
「ん? 嫌って?」
「挑戦したいの。もっともっとぶつけたいの。これでいいとかあれでいいとか‥‥そういうのは嫌なの」
「やれやれ‥‥」
 紘一は陸橋の欄干から離れると、チェロを担いで言った。
「とりあえず今夜は引き上げようぜ、お嬢さん。」
「ごめんね‥‥紘一」
「いいよもう。それより、大丈夫か?」
「うん‥‥あの‥ね、頼みがあるんだけど‥‥」
「なに?」
 ユリはふらっ、と起き上がると、紘一にしがみ付いた。
「‥‥一緒に、来て‥‥」

 浴室ではざあざあとシャワーの音が続いている。
 部屋の中は、不似合いなくらいにこうこうと明りが点いている。
 大きなチェロのケースを部屋の片隅に置いて上着を脱ぎ、紘一は所在無げにソファに座っていた。
 帰る前にシャワーを浴びたいからとユリが言うから、仕方無しにここまで付いて来たのだ。別にやましい気持ちからではないと自分に言い訳しながらも、この明るい部屋の中はどうにも居心地が悪い。
 シャワーの音が止まった。
 ガチャッと浴室のドアが開く音がして、タオルの擦れる音がしている。
「紘一」
「ん、なに?」
「ゴメン。バッグの中から取りたい物があるの。電気消して、向こう向いててくれる?」
(‥‥なぁんだ。お楽しみじゃないのか‥‥)
「はいはい。分かりました‥と。‥‥あれ? 消えないな。‥‥あ、こうか」
 大きなダブルベッドに膝を突いて、枕元のパネルを操作する。
 幾つかの照明が点いたり消えたりした後、部屋中が真っ暗になった。
 ベッドサイドのパネル表示だけが、暗闇にぽっかりと浮かび上がる。
「‥‥ありがとう‥‥」
 真っ暗な背後から、石鹸の香りが漂ってきた。
 何かごそごそとバックをひっくり返すような音がしている。
「‥‥紘一‥‥あの‥‥」
「今度はなに」
 暗闇の中で苛立たしく振りかえった紘一に、ユリが重なった。
「お‥‥い‥‥」
 ユリは離れようとしない。
 紘一の頬を両手に挟んで、暗闇の中で紘一の顔を確かめ、ユリは静かに、くちづけた。
 意外に小さくて、でも、とてつもなくやわらかな唇が、紘一の下唇を捕らえて吸う。
―――ちゅ‥‥
「う‥‥」
 さらさらとしたガウンの感触が手に残る。
 それでもユリから離れようと後ずさった紘一は、ベッドに足をとられた。
 ふたりは、バランスを失って、どさっ、と真っ暗なベッドの中にダイブする。
 天地も判らぬままバウンドして、暗闇の中で眼を凝らすと、洗い髪を後ろに纏めた白いうりざね顔の輪郭が紘一の間近に見えた。
 その頬に、ひと筋の涙が跡を曳いている。
「おい、ユリ‥‥」
「お願い、何も‥‥訊かないで」
 紘一は少なからず、驚いた。
 今までの紘一の知っているユリは、誰かに甘えるということが無かった。
 アマチュアの楽団ではあったが、ユリはコンサートマスターとしてのプライドをいつも全身に漲らせていた。いつも元気に行動するユリのプライドが、易きに流れがちなアマチュアの楽団をここまで引っ張ってきたと言っても過言ではない。
 でも、今夜のユリは何かが違っている。紘一は、まるで別人のようだ、と感じていた。
「めちゃくちゃに‥‥なりたいの。全てを‥‥捨ててしまいたいの」
「‥‥ユリ‥‥」
 紘一は初めて、ユリに女の性を感じた。
 化繊で織られた薄手のガウンを通して、胸のふくらみが伝わってくる。
 細い身体は折れてしまいそうに、しなやかだ。
 清潔な石鹸の香りが、紘一の鼻腔いっぱいに広がってゆく。
 独身の紘一は、暫らくぶりの女体の軟らかな感触に脳髄の奥が痺れ始めた。
 ユリの少し冷たい唇が、紘一の首筋にぴたりとくっ付く。
 ちゅっ、ちゅっ、とキスを続けながら、ユリの細い指先は、紘一の髪を掻きしだく。
「紘一‥‥わたしを‥‥めちゃくちゃに、して‥‥」
 小さな唇が、暗闇の中で淫らな言葉を囁く。
 紘一の気持ちはまだ揺れ動いているのだが、飢えた下半身はあっさりと裏切ってしまう。
 ズボンの中の海綿体に、熱い血液が次々と送りこまれてゆく。
「ユリ、いいのか?‥‥どうなっても、知らないぞ」
「‥‥いいの。‥‥わたしを救って‥‥」
「俺と付き合うと、ろくな事がないぜ」
 紘一は冗談めかして言う。
「ふふっ‥‥もう少し気の効いた事が言えないの?‥‥」
 ユリの表情は読めないが、張り詰めた気持ちが少しは解け始めたようだ。
 紘一の上に馬乗りになったユリは、ネクタイを弛め、シュッ、と引き抜いた。
 シャツのボタンを丁寧に外し、左右に大きく開く。
 紘一の胸板が、ひんやりとした空気に触れる。
 ユリは顔を近づけて、紘一の胸にキスをした。
「うっ‥‥」
 ユリの尖った舌先が、ちろちろと胸を這う。
「う‥‥んっ」
 紘一は左右の手首を上に向け、急いでカフスを外した。
 ユリも待ち切れない、とでも言うようにごそごそと紘一のベルトを弛め、ズボンに手を掛ける。
「ちょ、ちょっと‥‥」
 紘一は慌てて腰を持ち上げ、ユリに従う。
「‥‥ユリ‥‥ユリ‥‥」
 ズボンと靴下をベッド下に落としたユリを、闇の中から手探りで探し出して抱き寄せる。
 纏められた髪が少し濡れていて、冷たい。
 紘一はガウンの紐を解いて、ユリの胸の膨らみにそっと手を添える。
「‥‥あぁぁん‥‥」
 ユリが喘いだ。
 ユリの乳房は柔らかく、やさしい丸みを帯びていて、片手にも余る。
 紘一は左右の乳房を、両手でゆっくりと揉みしだく。
 ユリの乳房は、食い込んでゆく紘一の指の力を際限無く吸収してしまう。
 紘一の下半身の奥が、じわりと熱を帯びていく。
「ものすごく‥‥柔らかいよ‥‥」
「‥‥あん‥‥そう、もっと‥‥強くして‥‥」
「壊れて、しまいそうだ‥‥」
「いいの‥‥壊して‥‥」
 紘一はぎゅっ、と一気に乳房を掴みこんだ。
「ぁあぁっ‥‥」
 ユリが仰け反る。
 五本の指すべてが、乳房に食い込んでゆく。
 このまま掴み続ければ、きっと跡が残るだろう。
「ああぁぁ‥‥そう‥‥もっと‥‥もっとぉぉ‥‥‥‥」
 ユリは微かに首を振りながら、眉を寄せている。
 白い首筋に、赤味が注してきた。
 乾いた唇の周りを、ユリはぐるりと舌で舐めまわす。
 力を入れた紘一の手の平に、乳房の先端が感じられた。
 ユリの乳首が、次第に硬く、大きくなって来ている。
 その先を、ぎゅっ、と指で摘む。
「あ、はぁぁん‥‥いっ‥いいわ‥‥乳首が‥‥疼いてるの‥‥」 
 紘一は、ユリのガウンを外し、トランクスを脱いだ。
 ユリも気が付いて紘一の肩口に指を滑らせ、シャツを抜き取る。
 紘一は腕を伸ばして、ベッドサイドのライトを点けた。
 ふっ、とユリの白い裸体が、闇の中から浮かび上がる。
 余りのまばゆさに、紘一は息を呑んだ。
 ハレーションのように、ユリの裸身が輝いて見える。
 闇に眼が馴れていたからだろう。でも、紘一にはそれだけではないように思えた。
 ユリの肌は抜けるように白く、肌理も細かい。ざらついた粗い皮膚は何処にも無く、乳房の緩やかな上辺も腰のカーヴも滑らかで、素肌全体がしっとりとしている。肌の木目が細かいのは化粧の薄いユリの顔で気付いてはいたが、その全身を間近に見ると、つい溜息が出てしまう。
「肌が‥‥きれいだ‥‥」
「嘘‥‥」
 恥かしそうにユリは顔をそむけると、紘一から逃げるようにベッドに横になった。
「嫌‥‥」
 紘一はうつ伏せになったユリをひっくり返す。
「こんなにきれいなものを‥‥壊していいのか」
 ユリと紘一の眼が合った。
 心なしか、ユリの眼が潤んでいる。
「‥‥そう‥‥わたしを‥‥ばらばらに、して欲しいの」
 首筋からユリの甘い香りが立ち昇ってくる。
 紘一は鼻腔の奥まで、その甘い香りを吸いこんだ。
 陰茎がびくっ、と跳ねる。
 紘一は微かに頷いた。
 黙ったまま、ユリの両腕を左右に広げ、ベッドの中央に張り付けにでもするように、真っ直ぐに伸ばして押し付ける。
 ユリは少し顎を上げて、目蓋を閉じた。
 落ち着いた色調のルージュが艶やかに光っている。
 くっきりと立ちあがったふたつの乳首が、乳房の丘に長い影を曳く。
 薄色の乳輪が、乳首の周りを縁取っている。
 紘一はユリの両手を押し開いたまま乳房に顔を寄せて、硬く起った紅い乳首をその唇に含んだ。
「‥‥あ、あん‥‥」
 ユリがぴくぴくっ、と敏感に反応する。
 口の中で、硬い乳首をくにゅくにゅと転がす。
「うぅぅん‥‥‥‥‥‥ねぇ、紘一‥‥噛んで‥‥」
「え?」
「きつく‥‥噛んで欲しいの」
 どうしようか、と紘一は躊躇した。
 在り来たりの愛撫などでは今のユリに応えられない様な気がする。
 ユリは気持ちの行き場が無いのか、サディスティックな行為を自分に求めているようだが、紘一にはそんな経験は無い。
 迷いながらも紘一は唇を広げ、目の前のユリの乳首に歯を立ててみる。
「はうっっ‥‥」
 ユリの反応を上目遣いに注意深く観察しながら、力の加減をする。
 止めて、という表情は無い。
 そのままゆっくりと、乳首を引き上げてみる。
「ひいいっ‥‥あぁぁぁぁぁ‥‥」
 ユリが唇を噛み締め、乳首の痛みに堪えている。
 痛いと言うのならば直ぐに止めようと紘一は思った。
 しかしユリの喘ぎは、何処と無く艶めき始めている。
 紘一はユリの反応を確認し、さらに乳首を引っ張り上げる。
「あ、あぁぁぁぁぁん‥‥ん、あぁぁぁん‥‥」
 じりじりと十センチほど引き上げられると、乳首はグニュッと紘一の歯の間から抜け落ちた。
「はぁぁぁ‥‥」
 ぶるるっ、と震えて、詰めていた息をユリが吐き出した。
 紘一はまた、落ちた乳首をその口に噛み込む。
 もう一度、じわじわと乳首を持ち上げていく。
「う‥‥はぁあぁぁぁぁ‥‥‥‥‥‥いっ‥‥いい‥‥」
 ユリが眉を潜め、陶酔の声を漏らした。
 加減はしているが、痛みを伴うくらいには歯を立てている。
 しかしそのぎりぎりとした痛みは、紘一の想像を超えて、官能の悦びに変化していた。
 紘一はもう片方の乳首にも噛り付く。
 ぐっ、と噛んだまま、ゆっくりと持ち上げる。
 乳房が大きく引っ張られて、白い円錐のように起ち上がってゆく。
「‥‥あ‥‥ああぁぁぁぁ‥‥そう‥‥そうなの‥‥」
 両手を広げ、十字架のようにベッドに張り付けられたユリは、恍惚の表情を浮かべながら、呟いた。
「‥‥うれ、しい‥‥」
 再び乳房は限界まで引っ張られ、また頂点で乳首が外れて落ちた。
 弾むように乳房が元の形に戻ってゆく。
「‥‥はっ、はぁぁぁぁ‥‥」
 肩で息をしながら、ユリは唇を半開きにして喘いだ。
 どこか満たされたように、緩やかな表情を浮かべている。
 紘一は手を伸ばして小さなアルミ箔の小袋を取ると、口に咥えた。
 ギザギザのついた小袋の角で、ユリの脇腹をなぞっていく。
「‥‥う‥‥ううぅぅぅん‥‥」
 もじもじするように、ユリが躰を揺らす。
 紘一はユリを組み敷いたまま、咥えたその袋を片手で破ると自分に着けた。
 ユリの太腿の下に膝を差し込み、ユリの両足を開かせる。
「ねぇ‥‥わたし、もっと‥‥ばらばらに‥‥なる?」
 喘ぎながら、ユリが訊いた。
「ああ‥‥ばらばらに‥‥してやる」
 紘一はユリの白い顎を見詰めながら言った。
「元に戻れないくらいに‥‥な」
 紘一の陰茎は、ずきずきと硬さを増していた。
 血流が漲る陰茎は雄々しく反り返り、血脈に合わせてビクッ、ビクッ、と生き物のように律動している。亀頭の皮膚がピンと張り詰め、もの欲しそうに雫を垂れている。
「ユリ‥‥」
 紘一は下半身を落とすと、ユリの名を呼んだ。
 なだらかな恥丘を覆う黒い茂みの辺りに、陰茎の先が触れる。
 濃い匂いを放つ小陰唇の肉襞が、わずかに捲れあがる。
「ん‥‥んぅん‥‥紘一‥‥」
 はぁぁ、とユリが息を吸いこむ。
 鮮やかなピンク色の舌が震えている。
 紘一は躰をずり上げ、開いたままのユリの唇に自分の唇を重ねた。
 同時に、僅かに触れ合っていた陰茎の先端がユリの小陰唇にすっぽりと包まれる。
「んぅっ‥‥」
―――ちゅぅぅぅっ‥‥
 貪る様に唇を吸う。
 柔らかな舌と舌が、お互いを確かめるように触れ合う。
 暖かい蜜が、こじられた割れ目に溢れているようだ。
 敏感な亀頭の皮膚を通して、溢れ出した蜜のぬめりを感じる。
「濡れてるぞ。ぐちょぐちょ、だな‥‥」
「んぅ‥‥嫌‥‥イジワル」
「感じてるのか?」
「違うの‥‥‥‥壊れていくのが‥‥嬉しいの‥‥」
 股間の筋肉がぶるぶると震えた。
 陰嚢がきゅっ、と縮み上がっていく。
 早くユリに包まれたい、一つになりたい、と全身の血が騒いでいた。
 もしこのまま一つにならなければ、紘一自身が壊れてしまいそうだった。
 反りあがった陰茎が痛いほどに張り詰めている。
 紘一の下半身に、ぐっと力が漲った。
―――くちゅ‥‥
「あ‥‥」
 陰茎の先端が、ユリの膣に埋もれた。
 滑らかな蜜液が、張り詰めた亀頭をゆるゆると包み込んでゆく。
「‥‥あ、あん‥‥」
 しかしその先は、厚みのある肉壁に阻まれて少しきつい感触があった。
 紘一は膝を立て、腰を浮かした。
 体重を掛け、慎重に、押し込んでいく。
「うっ‥‥はぁぁぁぁぁ‥‥‥‥」
 押し入ってきた陰茎の圧力を逃がすように、ユリは息を吐き出した。
「そう‥‥入って来て‥‥もっと‥‥強くぅぅ‥‥」
 張り詰めた陰茎は、半分ほど挿し込まれた所で、周りの厚い肉襞に阻まれていた。
 むちむちとしているが、他のものを容易に受け付けないような筋力を持っている。
 紘一はこれほどまでに閉塞感のある女性は初めてだった。
 しかし、ふつふつと湧き上がる熱い潤みが陰茎を取り巻き始め、ユリの躰はゆっくりと紘一の躰を受け入れていく。
「‥‥ユリ‥‥すごい締まってる‥‥」
 ユリの耳元にうめく様に呟く。
「‥‥い、嫌ぁ‥‥」
 もう一度、紘一は体重を掛けた。
 ぐ、にゅぅぅぅっ、という感触と共に、ユリの中に陰茎が挿し込まれてゆく。
「あ‥‥嫌‥‥嫌‥‥い、‥や、‥あ‥あ、あぁぁぁぁ‥‥」
 陰茎が、膣を貫いた。
 ユリの白い首筋がぐっと持ち上がる。
 暖かいユリの膣は、紘一の硬い陰茎をぴったりと抱き締めていた。
「ああぁ‥‥きもちいいよ‥‥ユリ‥‥」
「‥‥あぁぁん‥‥‥‥とても硬いわ‥‥」
 紘一はユリの背中に腕を廻して、静かに動き始めた。
 膝を支点にして、ゆっくりと蜜にまみれた陰茎を前後させる。
 熱い雫が淫らな音を発しながらこぼれ落ち、シーツにひたひたと染みていく。
―――くちゅっ‥‥‥‥ちゅくぅっ‥‥‥‥‥‥
「ユリ‥‥どうして?」
「‥‥え?」
 自らを前後に揺らしながら、紘一はユリに陸橋のことを訊いた。
「‥‥うん‥‥紘一を‥‥あ、あんっ‥‥待って‥‥いた、の」
「‥‥俺を?」
 紘一の下半身がカッ、と熱くなってきた。
(‥‥やはり‥‥待っていたのか‥‥)
 陰嚢の奥に、例え様の無い官能の漣が迫って来る。
 下半身全体に鳥肌が立ち、それが全身に広がってゆく。
 腰の動きが、徐々に激しくなる。
 ゆさゆさと、ベッドが揺れる。
―――ちゅっ‥ぬちゅっ‥ぬちゅっ‥‥
「うん‥‥きっと‥‥あん‥‥来て‥‥はぁん‥‥くれるって‥‥」
「あの夜の事‥‥覚えていて、くれたんだ‥‥」
「‥‥うん‥‥あの、時は‥‥あ、はぁん‥‥ん、ん‥‥楽し、かっ、た‥‥」
 打ち付けられる腰の反動で、ユリの細い躰が揺さぶられる。
 ユリの細い腕と足が、しっかりと紘一に絡みつく。
 紘一が‥‥紘一が‥‥欲しかったの、とユリは途切れ途切れに言う。
 半開きの唇が、耐え切れない悦びでわなわなと震えはじめる。
 すぅぅぅっ、と息を細く吸いながら、快感を蓄積していく。
「‥‥あ‥‥いい‥‥いぃぃ‥‥もっと‥‥強くぅぅぅ‥‥」
 生暖かいユリの濡れた膣を、紘一の硬い陰茎が激しく出入りする。
 ギシッギシッギシッ、とベッドのスプリングが軋む。
 硬いままの乳首が、紘一の胸板にころころとあたる。
 柔らかな肉襞が、陰茎を幾重にも締めつけていく。
 背中に廻ったユリの腕にぎゅううぅっ、と力がこもる。
 ユリの中では、紘一の陰茎が限界に達していた。
「‥‥あん、あん、あぁんっ、‥‥んっ、んぅん‥‥んぅん‥‥」
「いきそうだ‥‥いきそうだ‥‥ユリ‥‥」
 がくがくとユリの躰が痙攣を繰り返した。
 紘一の全身も、びりびりと電流が駆け巡る。
「あ、ユリ‥‥ユリ‥‥」
 反り返った陰茎で激しく膣を掻き出しながら、紘一は間近に迫った極まりを告げる。
「‥‥もっと‥‥もっと激しくぅ‥‥もっ‥とぉぉ‥‥‥‥突いてぇぇ‥‥」
 耐えきれない。
 ビクッ、ビクッ、ビクッ、と陰茎が激しく跳ねた。
 熱い精子が陰嚢の奥から放射されてゆく。
「‥‥あ、あ、あうぅぅぅぅ‥‥」
 ユリはベッドに両手を伸ばし、ぐうんと背を反らしている。
 紘一は全身を襲う放精感に耐えている。
 ユリの爪がバリバリッ、とシーツを噛む。
 細い眉が弓なりに歪み、眉間の皺が深い陰影をつける。
 数秒の痙攣の後、陰茎の痛いような硬直が止み、緊張の抜けた紘一は、スローモーションのように、ユリの上に、倒れ込んだ。

 何時だろう―――時間の経過が、記憶に無かった。
 ふたりは、ただ黙ったまま、自分達の写るガラス張りの天井を見上げていた。
 天井の、シーツを絡み付けたふたりも、同じように黙っている。
「‥‥こんな時間に、帰っても大丈夫なのか?」
 紘一は天井のユリに向かって訊いた。
「そうね‥‥打ち上げで潰れて寝てたって、言うわ‥‥」
 天井のユリが答えた。
「バイオリン、辞めるのか」
「‥‥どうかな‥‥‥‥たぶん‥‥辞めないと思う」
「旦那に、謝るのか?」
「‥‥」
 ユリは、すぐに答えずに、ゆっくりとそっぽを向いた。
「‥‥仕方が無いけど。‥‥多分謝るしか、無いわ」
「別に悪い事してるわけじゃないんだから、旦那なんかほっぽっとけよ」
 そう言ってから、紘一は自分達の状況を見て苦笑した。
 ユリもふっ、と頬を弛める。
「なんて言えばいいのかな‥‥わたしがここにいるだけでも、大変な事なのよ‥‥まだまだ儒教の世界なんだから‥‥」
「うん‥‥そう、か‥‥」
 紘一は深い溜息をついた。
 ユリは普段、通名を使っている。
「でも、もう‥‥辞めたわ」
「え? 辞めるって?」
「辞めたの。‥‥綺麗に、生きる事」
「はは。じゃあ、キタナク生きるって?」
「‥‥汚れても、汚れなくても、わたしは自分の好きに生きるの‥‥何かに縛られるのはもう、嫌」
 ごめん、先にシャワー使うわね、と言い残して、ユリは一人でバスルームに消えていった。
 ガラスの向こうの紘一も、じっと紘一を見詰めていた。

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