5.それぞれの決着
「ただいまぁ」
バタン、とドアを閉めて向き直ると、ちゃぶ台の向こうからミノルが黙ったままアタシを手招きする‥‥なにも笑顔でドアを開けてキスで出迎えろとは言わないけど、それにしてもちょっと無愛想すぎるんでないかい?
また何かあったのかな?
ちゃぶ台の上には名刺が一枚。そして名刺に記された名前は‥‥アタシの目を大きく見開かせて、憤りを呼び起こすのには充分だった。
父の名刺。
なんで、あの男がこんな所にまで来るんだよ‥‥
「オマエ、神崎って名字なんだ‥‥神崎樹‥‥うん、初めてフルネームで呼べたよ」
なんだか気の抜けた声でミノルがアタシの本名を呼ぶ。別に隠してた訳じゃないけど、こんな形でバレるというのはなんという皮肉だろう‥‥
「なんで‥‥ねぇ、父さんとどこで会ったの?」
ホントはあんな男、[父さん]なんて呼びたくないよ。
「ん‥‥あぁ、何のこたぁない、オレの会社のお偉いさんなんだとよ‥‥」
嫌いなはずのビールにチビリと口をつけて、ミノルは話を続ける。
「いやさぁ、今日仕事してたら突然呼び出されて、この前のミスで怒られるんだろうな、と思ってたらいきなり名刺渡されて、ちょっと話があるって別室連れてかれて‥‥」
‥‥ありえない。あっちゃいけないよ。あんな男がミノルの上司だなんて‥‥
「てっきり怒られるのかと思ったけど、いきなり[実は私は君を評価している。君はここでは人間関係に恵まれないだけなんだ]って言われて‥‥なに言ってんだコイツ?って思ってたけどどうやら本気らしくて、[どうだ、本社に移ってもう一度やり直してみないか?]って言われたよ‥‥栄転だぜ栄転、絶対こんなチャンスねえだろって思ってたけどな」
にわかには信じられない話だった‥‥だって、さっき家で会った時は、
「あんないい加減な男」
って言い放ってたんだよ?
「‥‥ホントなの、その話?」
ちゃぶ台を挟んでミノルの顔をグッと見つめると‥‥まるで呆れたような表情でため息をつく。
「それがねぇ‥‥」
頭をガリガリ掻きむしりながら、息苦しそうに吐き出す次の言葉。
「‥‥樹と別れる事、ってのが交換条件なんだって。[評判のあまり良くないヒラ社員と娘が付き合ってる‥‥そんな事が表沙汰になったら私の立場が悪くなる]だってさ‥‥」
そう言いながら飲めないビールを無理矢理流し込むミノルの顔は、全然嬉しそうには見えなかった‥‥
そういう事か。
何が栄転だ?要するに自分の権力を利用して自分の立場を守りたいだけじゃない‥‥そんな事のためにミノルが犠牲になるの?
もう許せない。
「分かったよ‥‥ゴメンなミノル。こんな事になったのも全部アタシのせいだよね‥‥」
アタシはミノルに背を向けて、そのまま玄関に向かう‥‥やりきれなかった。アタシがミノルに甘えたばっかりにこんな事になってしまうなんて‥‥多分もうここには戻れない。あの男に蹴りの一発でもくれてやって、その後は‥‥
「ちょっと待った」
スッと肩に伸びてきたミノルの手が、出て行こうとするアタシを強く引き留める。
「‥‥止めちゃダメだよ。これはアンタのためなんだから」
「いや‥‥止めるよ。だって樹が出て行く必要なんてどこにも無いんだもん」
「‥‥えっ?」
振り返ると、まるで確信犯のような顔をしてミノルが笑っていた。
「なんで?」
「オマエの父さんが何を言っても、もうオレには関係無いから‥‥オレ、今日で会社辞めたんだ」
はぁ!?
「[オマエみたいな奴がエライ役やってる会社になんて、もう居たくも無いです]って、言ってやったよ。いや~実際辞めてみるとこれはこれで気持ちいいもんだね‥‥樹の気持ちが少し解ったような気がするよ」
驚いた。
いろんな感情が頭の中に浮かんでは消える‥‥不安、同情、諦め、憤り‥‥
だけど‥‥とっさに口をついて出たのは実に単純な言葉だった。
「バカッっ!!」
「な‥‥何なんだよオマエは、あれだけ辞めろ辞めろ言ってたクセに?」
「だってさぁ‥‥こんな辞め方して悔しくないの?あれだけ意地張って踏み止まってたのに‥‥」
「そりゃあ‥‥確かに悔しいよ。悔しいけど、でも‥‥」
そこまで言いかけて、ミノルは急にアタシから目を外らす。
「‥‥そこまでして意地を通すよりも、樹と一緒に居たい、って想いのほうが強かったんだ。だって、独りで寂しいのはもうイヤなんだよ‥‥」
「‥‥‥‥」
アタシは黙ったまま、俯いたミノルの後ろ姿を力一杯に抱き締めてやった‥‥だってさぁ、そんな事言われちゃったらもうこうするしか無いじゃない‥‥
「樹‥‥、‥‥って、ちょっと待て、そんな強く締め付けたら息が、苦しい‥‥離せって‥‥」
アタシはさらに力を込めて、ミノルをベッドまで引きずっていった‥‥まいったな、今日は二回戦かぁ‥‥いいさ、とろけるぐらいに熱く抱き締めてやるよ。
満月がようやく空高くまで舞い上がって、窓越しのやわらかな明るさでベッドの上を照らす‥‥仰向けのアタシの上にミノルが覆い被さって、不器用な手つきで懸命にアタシを解きほぐそうとする。挿入まで盛り上げるのはいつもはアタシの役目(楽しみ?)なんだけど、今日のミノルは随分と積極的にアタシを求めてくる。
乳房に食い込んで揉みほぐしていく指遣いはあくまでも優しくて、でも次の瞬間には本性を剥き出しにして強く激しく襲いかかってきそうで‥‥そんな危うさを抱えた目つきで乳房の間から見つめられたら、いつにも増してめちゃくちゃにされる自分の姿を想像してしまうよ‥‥
やがて指は乳房から離れて下半身へと移っていく。ジーンズのボタンを外す慣れない手つきを眺めながら、アタシはそっとほくそ笑んだ。なぜならその中には‥‥
「うわ、なんだコレ!?」
想像した通り、目をパチクリさせながらミノルはそこを凝視する‥‥そう、ホントはミノルを誘惑するために買った、黒のヒラヒラのランジェリー‥‥
「ビックリした?‥‥ンフフ、たまにはこういうのもイイでしょ。イヤらしい雰囲気を楽しむってカンジでさ‥‥ほぉら、見て‥‥」
呆然とするミノルの目の前で、ランジェリーのお尻を見せつけるようにゆっくりと揺すってやる‥‥我ながらイヤらしいと思う瞬間。やっぱりこの性もママ譲り、なのかなぁ?
「‥‥どぉ?」
たっぷりと毒を練り込んだ視線でミノルを捕えて‥‥さぁ、アタシをどう料理してくれるのかな‥‥?
だけど‥‥そんな期待を肩すかしするように、ミノルはあっさりとランジェリーを脱がせて、素のままのアタシに戻してしまう。
「こうゆう下着もまぁ、いいと思うけどさ‥‥やっぱりオレは裸の樹のほうが好きだなぁ」
綺麗に揃えた陰毛をまじまじと眺めながらそんなことをのたまうミノル‥‥よく言うよ、昨夜はホットパンツにあれだけ興奮してたクセに‥‥チェッ、下着ゴコロの鈍いヤツめ。
でも‥‥ホントはそのセリフ、ちょっと嬉しかったよ。
コンドームを手にして、アタシとミノルは頭と脚を逆にして横たわる。いつもの儀式‥‥アタシはすっかり戦闘体勢になったソレを舌先でツウッと濡らしていく。
コイツはこれで結構マジメな所があって、自分で付ければ間違いないだろ、っていつもアタシにコンドームを付けさせるんだ。前に一度だけイボ付きのコンドームを試してみた事もあって、なんだコレ?ってミノルは驚いてたけど、使ってみると想像以上に効いてアッと言う間にイカされちゃって‥‥イボイボの亀頭でグリグリかき回されちゃってさぁ‥‥悔しかったなぁ、あの時は。
入り口の輪ゴムを目一杯に拡げて、太いモノにゴムを被せていく。その瞬間、アタシはちょっと後ろめたい罪悪感を感じてしまう‥‥そう、ついさっきまでゴムも付けずに交わっていた、ミノルではないオトコの事を思い出して‥‥
さっき部屋から出て行こうとした時、頭の中にフッと浮かんだのはセイ君の気弱そうな顔だった。あそこに身を寄せてもいいんじゃないかな‥‥って、一瞬だけど思ってしまったんだ。
そんなアタシをどうか許して‥‥
「ゴメンね‥‥」
「‥‥なんか言った?」
ミノルに問い返されてついビクッとしてしまう。心の中で言っただけのつもりがしっかりと口からこぼれていて、アタシはごまかすための言葉を慌てて探す。
「ううん‥‥いや、アタシのために会社クビになっちゃったから‥‥悪いなぁ、と思ってさ‥‥」
‥‥よかったぁ、ちゃんと言葉がつながって。
「あぁ、そんな事か‥‥もういいよ。どうせこのまま居続けても浮かばれないって、薄々感じてたしね‥‥ちょうどいい潮時だったんだよ」
話し終わると同時に、身体の芯にビクッと痺れが走る‥‥蕾のふくらみに熱い舌が絡み付いて、アタシがミノルの亀頭にしゃぶりつくのと同じようにたっぷりと唾液を塗り付ける。
「ん‥‥?今日は随分と反応が早いな。もうこんなにグチョグチョになっちゃってるじゃん‥‥さてはどこかでいいオトコでも引っ掛けて、一発ヤッてきたのかな?」
あまりにも鋭い指摘に、さっきの倍ぐらいビクビクっとしてしまう‥‥今夜のミノルってやっぱり変。もしかして最初っからセイ君との事に感づいているのかなぁ‥‥?
そんな胸の内を知ってか知らずか、唇と蕾を往復する舌遣いはまるで撫でるように優しく‥‥でも執拗にねっとりと責め続けて、いつしかアタシを快感の淵に追い込んでいく。
「ぃやっ‥‥はぁ、あっ‥‥やぁっ、ぁぁ‥あんっ‥‥あぁ‥‥ん‥‥」
優しいんだけどちょっと怖くて鋭くて‥‥深い感情が伝わるような舌のうごめき。
いろいろあったけど、やっぱり今夜もこの温もりに身を任せる事にしよう‥‥ゴムが弾けそうなほどに膨らんだミノル自身に、アタシは優しく頬ずりをした。
「いくよ‥‥」
アタシの上にミノルがそっとのしかかってきて、セイ君に虐め抜かれた膣の中をさらに大きくこじ開けていく‥‥セイ君のモノとはまた違う、極太の逞しい剛直の味‥‥ゆっくりと膣の壁を擦りつける摩擦熱が、ジワリジワリと身体の芯を侵食していく。
「‥‥ぁふぅ‥‥あんっ、あぁん‥はぁあっ‥‥」
素直に気持ちいいから、艶っぽい喘ぎ声だって自然に出せる‥‥もしかしたらそれって幸せな事なのかもしれない。だって考えてみなよ、演技も強制もなくこれだけ自然に喘ぎ声を出せるセックスって一体どれぐらいあるんだろう?実のところそう多くはないんじゃないかなぁ‥‥
ところが、せっかくの艶っぽい喘ぎ声を吐き出す唇をミノルは手のひらでそっと塞いでしまう。
「おねがい、今日は黙ったままオレを受け入れてよ‥‥なんか、そのほうが深く結び付けるような気がするんだ」
そうかなぁ‥‥頭の中に?マークを抱えたまま、でもとりあえず頷いてミノルの思うままにさせてみる。
深く、浅く、また深く‥‥憎らしいぐらいにゆったりと、大きなストロークでアタシを貪る腰遣い。すぐには効いてこないけど‥‥フタをされて行き場を失った快感がやがて身体の底に溜まってきて、アタシの中のミノルが一刺しごとに太く長く膨らんでいく。
「少しずつ強くしていくよ、樹‥‥」
微妙に速くなった腰遣いがアタシを串刺しにして、セイ君との記憶を洗い流して奪っていく‥‥煙のように身体の中で渦巻く快感を吐き出したくて、でも出せなくて‥‥ズシン、ズシン、と膣を貫く熱く硬い感触がだんだんとアタシを狂わせていく。
テクも器用さも無いクセに、コイツはアタシを追い詰めるツボをちゃんと心得ていて‥‥なんだか悔しくてバカらしくなってくる。
「‥‥樹‥‥こんなに暖かくオレを包んでくれて、アリガトウ‥‥愛してるよ‥‥」
‥‥んっ?
「あっ‥‥いや、その‥あい‥‥ありがと、って‥‥」
NG大賞の役者みたいに必死にごまかそうとするミノル。でも‥‥聞こえちゃったよ、[あのセリフ]をポロッと漏らすのを‥‥
「ごまかしたってダメだよ。今、言ったでしょ‥‥[愛してる]って‥‥後でヒザ蹴りだからねっ」
[愛してる]って口にしたら蹴り一発‥‥アタシとミノルの間のルールなんだ。だってそんな不確実で無責任で自分勝手な言葉、口で伝えたって迷惑なだけだよ。
もっとも、アタシはそんなこと口にしないから、アタシが蹴り入れられた事はまだ一度も無いんだけどね‥‥
小さく開けた窓から涼風が流れてきて、汗だくになった二つの裸体をそっとクールダウンさせて去っていく。
さっきの事が余程悔しいのか、ミノルは一気に動きを激しくしてアタシを責めたてる。奥底まで貫く動きは速くて深くて、円を描くように腰をスイングさせながら太い剛直の味をイヤというほどに焼き付けていく。
ダメだよ、そこまで強く虐められたら‥‥声、出ちゃうよぉ‥‥
「‥‥ぃや、あぁん、はぁあんっ‥‥ハアッ、あっ、ハァ‥‥あぁ‥‥」
すかさずミノルは熱い手のひらで唇を強く塞いで、殺意をも秘めた鋭い視線で真上からアタシを突き刺す。
「声出さないで、って言ったでしょ。ダメだよちゃんとガマンしなきゃ‥‥分かったね」
低くてドスの効いた囁きでアタシを屈服させると、唇を塞いでいた手をゆっくり除いて、代わりに大きく開いた唇をピッタリと被せる。
身体に充満した痺れるような快感を残らず吸い尽くすような、甘くてねっとりとした深い口づけ‥‥
唇が離れると、アタシにはもう声を出す気力すら残ってなくて‥‥大波のようにアタシを飲み込む腰遣いに、ただ力無く翻弄されるしかなかった‥‥
次の日。
アタシは朝早くママに呼び出されて、再び実家に戻ってきた。
居間に入るとママはソファーに一人で座っていて、黙ったまま横の席を指差す‥‥驚いた。昨日まで散らかり放題だった部屋がすっかり片付けられていて、久々にカーテンを開け放った窓からは夏の日差しが眩しいぐらいに差し込んでくる。
「もうじき[あの男]も来るから‥‥三人揃って話したい事があるの」
ママは正面を真っ直ぐ見据えたまま、意を決したように口を開く。ピン、と張り詰めた空気は夏という季節を忘れさせるほどに冷たくて‥‥今日のママはいつもと全然違う、何かを思い詰めたような顔をしている。
覚悟を決めた佇まい‥‥アタシにもその意味が薄々と解るような気がした。
「樹‥‥」
正面をずっと見据えたまま、ママはアタシに問いかける。
「‥‥アタシとあの男と、アンタはどっちを選ぶ?‥‥自分の問題なんだから、アタシに遠慮なんかしないでよく考えなよ」
その問いかけだけで、アタシは全てを理解した。そしてその答えは‥‥もう何年も前からとっくに決まっていた。
「アタシは、ママについていくよ。何があっても後悔なんかしないから、だから‥‥大丈夫だよ、ママ‥‥」
言葉の余韻が完全に消えた頃、ママはぎこちない笑顔をアタシに向ける。
「‥‥ありがとう、樹」
煙草一本すら入り込む余地の無い沈黙の空間で、時計の秒針はまるで重石を付けられたようにゆっくりと回っていく。
「‥‥全く、今日は大事なお得意様に会う日だというのに‥‥一体何の用だ、手短に済ませろよ」
「すぐに済むよ‥‥いいからそこに座って」
ママの正面の席に父が座って、机を挟んでアタシの目の前で二人の親が相対する‥‥どこにでもある一家団欒の図。でもアタシにとっては随分久し振りの、違和感すら感じてしまう光景だった。
「これで家族全員、揃ったね」
ママは確認するようにアタシと父の顔を交互に見つめると、傍らのバッグの中から紙とボールペンを取り出して、バンッ、と父の前にたたき付けた。
離婚届。
父は目を大きく見開いて、うろたえるように顔をヒクヒクさせる‥‥ドラマでしか見た事のないその書類はまるで氷のように冷たくて、その重さは一枚の紙の質量をはるかに越えていた。
「親族の承諾は全部もらったから、後はアナタがサインするだけだよ」
怖いぐらいに静かな口調でママが決断を迫る。親族の承諾なんて面倒な話、いつから進めてたんだろう?昨日今日じゃないはずだけど‥‥アタシ今まで一言もそんな事聞かなかったよ。
喉元に刃を突き付けられて‥‥父はしばらく黙り込んだ後、突然顔を真っ赤にして一気にまくし立てる。
「お前‥‥今まで誰がお前らを食わせてきたと思っているんだ、この街に来てこの家を買ったのだって俺ががむしゃらに働いたからじゃないか!それなのに、いきなりこんな事持ち出して‥‥お前ら二人でこれからどうやって暮らしていく気だ、ええっ?」
今まで見た事もない程のすごい剣幕で父が凄む。しかしママは怯まずに、すかさずドスの効いた声で言い返す。
「バカにするんじゃないよ!食って生活するぐらいアンタなんかに頼らなくてもできるわよ‥‥アタシや樹のために働いてるって言いたいんだろうけど、オンナつくって家庭から逃げたのはアンタ自身だろ?そんな奴にアタシ達を縛り付ける資格なんて無いんだよ!」
机からグッと身を乗り出して、ママと父は瞬きもしないで睨み合う‥‥アタシは呼吸するのも忘れて、血が凍りつくような感情の激突をただ凝視する事しかできなかった。
やがて二人は同時に深いため息をつきながら、向かい合わせのソファーに身を沈める。
「私には優秀な弁護士の知り合いがいる。裁判になったらお前らに勝ち目は無いぞ」
「裁判なんかしないさ。家も財産もアンタのモノなんだから、遠慮しないで持って行きなよ‥‥その代わり‥‥」
そこまで言って、ママは最後の確認をするようにアタシに目を合わせる‥‥アタシは迷わず首をタテに振った。
「樹は、アタシが引き取るからね。そのほうがアンタも都合がいいはずだよ」
一瞬、チラッと父とアタシは視線を合わせる‥‥憎しみでも哀れみでもなく、その時初めて[大人]としてアタシを見てくれる父の目がそこにあった。
「‥‥いいだろう」
サラサラと書類にサインをする父。やがてママは書類を受け取って、バッグの中に大事そうにしまう‥‥これで離婚が成立。呆気ないほどあっさりとした最期だった。
全てが終わった後、父はそれまで虚勢を張ってたのがウソのようにガックリとうな垂れてしまう。
「‥‥本当は浮気するつもりなんて無かったんだ。がむしゃらに働いたのも、本当にお前達を思っていたからなんだ。ただ‥‥家に帰れなくなったりしてお前とすれ違い始めた時にそのスキマを埋めてくれる女がいて、その後もそんな女を求め続けた‥‥それだけの事だったんだ」
言い訳といえば言える父のグチみたいな一言。けど不思議な事にアタシは父を責める気にはならなかった‥‥確かに強欲で卑怯なオトコだよ。でも、始めからこんな人間だったわけじゃない‥‥
「おいで」
そう言い残してママはスタスタと居間から出て行ってしまう。アタシも父も慌てて後を追うと、ママは階段の手前にいて、父に向けて黙って手招きしていた。
ママは父を引き連れるようにして、二階への階段を登っていく。
アタシも続こうとしたその時、ママが踊り場からこっちを向き直って‥‥アタシを拒む強い視線が[二人だけにさせて]って言っているようだった。
物思いに耽りながらソファーに身を任せていると、真上にある寝室から二人の物音がかすかに漏れてくる。
アタシは全神経を研ぎ澄まして、寝室で今起こっている出来事をなんとか嗅ぎ取ろうとしていた。その行為にはとても重要な意味があるような気がしたから‥‥
30分ぐらい経っただろうか‥‥階段を降りてきた二人は居間に戻ることもなく、そのまま玄関へと向かっていく。
パタン、と静かにドアを閉めて、黙ったまま父は出て行った。もうあの男を[父]と呼ぶことは無い‥‥そう思うとさすがにこみ上げてくるものがあった。
居間に戻ってきたママは少し寂しげな、神妙な表情を浮かべている。
「セックス‥‥してたの?」
待ちかねたようにアタシが尋ねると、ママは少し俯いたままコクッと頷いた。
「‥‥疲れてるんだろうね、だいぶ弱っていたよ。仕事でいつも忙しいっていうのはホントだったみたい‥‥もう少し許す事ができたなら、もう少し早く肌を合わせる機会があったなら‥‥アタシにもあの男のスキマを埋める事ができたのかもしれないね‥‥」
ママはゆっくりとこっちに戻ってきて、アタシの隣に深々と身を沈める。
「終わったぁ‥‥」
フゥ‥‥ッと大きなため息をついた後、バッグからいつものメンソールの煙草を取り出して、慣れた手つきで火を灯した。
「‥‥いつから考えていたの、離婚するって?」
「ん‥‥もう結構前からね、こういう結論しかないかなぁ、って思ってはいたんだ。先方の親とも話したりして‥‥ただ、やっぱり踏ん切りがつかなかったんだ。でもその間にもアンタはいいパートナーを見つけちゃったりしてさ、アンタなりにちゃんと成長してるじゃない‥‥曲がりなりにも親として、ここらへんできっちりケリをつけなきゃ‥‥そう思って決心したんだよ」
「でも‥‥ママはこれからどうするの?この家からも追い出されるんでしょ」
「そうねぇ‥‥とりあえずデリヘルのお姉さんでもやってみようかなぁ、って思ってるの。手っ取り早くカネになるし、何よりオトコを相手にするの、キライじゃないしね‥‥」
「‥‥ママらしくていいかも。最近は熟女専門のデリヘルなんてのもあるからねぇ」
「失礼ね、干支ひと回りサバ読めばアタシだってまだ20代だよ‥‥2?歳バツイチ、超絶テク持ち‥‥なんて売り出したら人気出るぞ~」
「干支ひと回りって‥‥でもママだったらバレなさそうで怖い」
ひと通りバカ話を終えると、部屋は急にしぃんと静まり返る‥‥アタシを大きく包み込むママの優しさは変わらない。でも‥‥どこか手持ち無沙汰のような、張り合うものを失った虚しさを感じさせていた。
「樹‥‥」
ママはバッグから一枚の写真を取り出して、アタシの目の前にそっと置く。
それは、まだ幼い頃のアタシが父の頬にキスしてる画だった‥‥よく見ると背景の陽だまりがとても優しくて、やわらかい色をしている。
「こんな時もあったって事、忘れないでいて欲しいの‥‥こういう終わり方になっちゃったけど、あの男と一緒にいた記憶が消える事は無いから‥‥」
切り取られた優しい光景をしっかりと目に焼き付けて、アタシは写真を大切にポケットにしまった。その時、あるはずないと思っていた[悲しみ]が、胸の奥からドッと溢れてくるのを感じた‥‥
昼下がりのビルの谷間、長く伸びる影はシェルターのようにアタシを灼熱の日差しから護ってくれる。
眩しい恋の季節‥‥からは見事に遮断されたこの一角で、アタシはさっきからずっとオトコを待っている。そう、昨夜の別れ際、セイ君とこの場所で3時に待ち合わせる約束をしてたんだ‥‥話したい事があるんだ、って言う真剣な顔がいじらしくて可愛かったから‥‥
で、今何時かって?
3時20分。
アイツめ‥‥自分で呼んでおいてチコクするとはイイ度胸してるじゃん。
ぶら下げたコンビニ袋の中には缶ビールが二本。一本はアタシのでもう一本は‥‥当然、セイ君に飲ませる分。
辺りに誰もいないのを確認して、アタシはセイ君のビールの飲み口にそっと唇を吸い付ける‥‥想いを込める数秒間‥‥よしっ、と。
甘ぁい魔法でほろ酔いしなよ。
背後からバタバタと誰かが走ってくる‥‥慌ててビールを袋に戻して後ろを振り返ると‥‥
「‥‥よかったぁ、待っててくれたんだ‥‥遅れちゃってゴメンなさぁい」
「遅いぞイロオトコ!こんないいオンナに待ちぼうけさせるなんて‥‥憎い事するねぇ、この!」
ハァハァと息を弾ませるセイ君の額を、軽く握った拳で小突いてやる。
「いやぁ‥‥急に家の用事ができちゃって、本当ゴメンなさい‥‥怒って、ないですか‥‥?」
「フフッ、冗談だよ。そんな気にするなって‥‥せっかくだから中でゆっくりしようよ。今日はアヤしい事しないから安心して‥‥ね」
まだ息が弾んでいるセイ君をそっと促して、二人して細い空間に吸い込まれていく。頭上の日差しと足元の深い影のコントラストが夜とはまた違うやわらかい雰囲気を醸し出していて、地面に寝転がる[先客]を優しく浸していた。
しっぽが妙に長い、プリカッツのワインのラベルみたいな黒猫‥‥そういえばここでミノルと初めてセックスした後、フラッと迷い込んできたのもこの猫だったっけ‥‥もしかしてこの空間の主なのかな?
「こっちおいで」
屈んだセイ君が両手を広げると、黒猫は慣れたようにサッと走り寄ってきて腕の中に飛び込む‥‥無邪気に猫とじゃれ合うセイ君は昨夜とまるっきり違う弾けるような笑顔をしていて、見ているアタシまでクスッと口元が緩んでしまう。
でも、その光景はセイ君がこの空間でやり過ごしてきた時間の長さの裏返しなんだ‥‥そう思うと胸がキュッ、と締め付けられるようでもあった。
昨夜と同じように二人並んで腰を落ち着けて、アタシは魔法をかけたビールをそっとセイ君に差し出す。
「飲みなよ」
「えっ、これってビール‥‥ですよね?」
「もちろん」
「でも‥‥僕まだハタチになってないよ」
「アタシもだよ‥‥大丈夫だって、誰も見てやしないんだからさぁ」
「でも‥‥、‥‥」
困り果てた顔をして渋るセイ君‥‥どうやらビールは下げるしかないようだ。
せっかくの魔法は台無しかぁ‥‥
気を取り直して自分のビールを一息あおってから話を始める‥‥誰でもいいから聞いて欲しい今朝の出来事。
「アタシの両親、今日離婚しちゃったんだ」
「ええっ、ホントてすか?」
「うん‥‥スゴかったよ。離婚届を前にして二人で怒鳴り合って、裁判とか弁護士とかいう言葉が出てきちゃったりしてさぁ‥‥口出しなんかできやしないよ。なんだか大変な事なんだなぁ、って見てるしかなかった」
「はぁ‥‥」
「でも不思議なんだよねぇ‥‥アタシ父さんの事スゴく嫌いで、消えて無くなれとか思っていたんだけどさ‥‥実際ホントにいなくなってみるとスゴく悲しいんだよ。なんだか張り合いが無くなっちゃって、そこから冷たいスキマ風が流れてくるような‥‥そんなカンジがするんだ」
口をついて一気に出てきた今日の出来事についてのアタシの想い‥‥誰かに聞いてもらう事でぐちゃぐちゃになったココロの中を整理したかったんだと思う。まして同じような境遇のオトコ相手ならなおさら‥‥ね。
「そうなんだ、大変だったね‥‥ウチは逆に今日母さんが帰ってきたんだ。[もうお前とは会わない。家族の許に戻ってやってくれ]って付き合ってた男に言われたんだって‥‥」
「付き合ってた男って‥‥アタシの父さんの事でしょ?」
「あ、そうか樹さんの父さんだったんだよね‥‥うん、母さん帰ってきてからずっと泣いててさ、僕と父さんでずっと慰めていたんだ。それでちょっと遅くなっちゃったんだけど‥‥でも、これからはまた仲良くやっていけそうだよ」
そっか、父は父なりにちゃんとケリをつけたんだね‥‥ママに伝えてあげなくちゃ。
「よかったね、お互いに」
それからしばらく、セイ君は黙ったまま黒猫と戯れていた。アタシはアタシで、ビルの谷間の青空を見上げながらプカプカと一服‥‥なんとなくこの[二人]を邪魔したくなかったんだ。
「ところでセイ君、話があるって一体何なの?そろそろ教えて欲しいなぁ‥‥」
ちょっとだけ毒を含んだ視線でセイ君を捕える。すると急に目を外らしてオドオドし始めてしまう。
「どうしたの?」
相変わらずじゃれてくる黒猫も放ったらかしにして、少し俯いて悩んでしまうセイ君‥‥その横顔が可愛くて、アタシにはセイ君の言いたいことがなんとなく解ってしまった。
「樹さん‥‥あの、やっぱり僕にもビールください」
「飲むの?」
「うん‥‥」
待ちかねたようにアタシは魔法入りのビールを手渡す。ちょっとぬるくなったけど効き目はまだあるはずだよ。
「さ、グーッといっちゃってよ」
プシュッ、とプルを開けて、飲み口にスッと唇を付ける‥‥これで間接キスが成立。
と思ったらセイ君はそのままグイグイいって、一息に飲み干してしまった‥‥オトコだねぇ、今の姿ミノルにも見せてやりたかったよ。
フゥ‥‥ッと息をついてカラになった缶をカツンと地面に置くと、セイ君は決心したようにアタシに向き直る。
驚いた‥‥さっきまであんなにオドオドしてたセイ君の目が据わっちゃってるんだもん。
「樹さん‥‥僕、貴方の事が好きです。貴方のカラダが好き‥‥なのはもちろんだけど、それよりも樹さんという人間そのものがすごく好きになってしまって‥‥一晩考えたんですけど、やっぱり側にいて欲しいな、って思いました」
ぅわぉ!言っちゃったよコイツ。160キロのど真ん中直球勝負。
それとも魔法が効きすぎちゃったのかなぁ?
笑っちゃいけないんだろうけど、カラダはもちろん好き、って所でクスッと笑ってしまったよ‥‥いいなぁ、セイ君のこういう正直な所アタシすごく好きかも。
他人にしておくにはもったいないな。すぐ手の届く所にいて欲しいよ。
アタシは真剣な表情のセイ君をグッと引き寄せて、可愛い唇を強く吸ってあげた。ビールより何倍も強い魔法でがんじがらめにしてあげたかったから‥‥
「ゴメンね‥‥セイ君の事、アタシ嫌いじゃないよ。もしかしたらスゴく好きかも‥‥でも、昨夜も言ったけどアタシにはもう付き合ってる人がいて、いろいろあったけどやっぱりその人を愛してるから‥‥だからセイ君とは一緒になれない。ゴメンなさい」
精一杯の[愛]を込めて、これがアタシの返事‥‥決して一緒にはなれない、けどアタシの側から離したくないんだ‥‥なんという残酷なワガママ。やっぱり[愛]なんて自分勝手なモノなんだよ‥‥
「ふぅん‥‥じゃあ僕は都合が悪いんですね。せっかく好きになったのに‥‥」
不意に見せたセイ君の冷たい眼差しにズキッと痛めつけられる‥‥その通りです。セイ君を好きなのもそれでいて一緒になれないのも、全部アタシの都合なんです‥‥あぁレンアイなんてこんなもの。アタシもたいがいイヤな奴だよなぁ‥‥
そんなアタシを見て、セイ君は突然クスクスと笑い出してしまう‥‥何がそんなに可笑しいんだろうか、顔を下を向けて今にも吹き出しそうになるのを必死に抑えている。
「冗談ですよ、樹さん。怒ってなんかいませんって‥‥だからそんなにヘコまないでくださいよ」
とうとうガマンできなくなって大笑いしてしまうセイ君‥‥アンビリーバブル。アタシにはさっぱりワケが分からない。
「どうしちゃったのセイ君?フラれたというのになんだか嬉しそうだね」
笑い過ぎのセイ君にイヤミっぽく言ってやると、イヤミでなくホントに嬉しそうな顔をアタシに返してきた。
「フラれるなんてそんな、分かりきった事じゃないですか‥‥そんな事よりも、樹さんが僕を[恋愛対象]としてちゃんと見てくれた事が嬉しかったんです。それだけで僕はもう満足なんですよ‥‥ありがとう、樹さん」
なるほどね。
どうやらこのぐらいの距離が二人にとって都合がいいらしい。コレを世間じゃ友達以上恋人未満っつーのかなぁ?
「これからもヨロシクね、セイ君」
やわらかな頬にそっと口づけしてやると、急に顔が真っ赤になってとても可愛らしかった‥‥一気飲みの酔いが回ってきたんだろうな。