1.
仕事が終わって、ミノルは独り黙々と帰り支度を始めた。
この会社に入って8カ月ぐらい。仕事は人並みにできる自信はあるけど、ここの人間とどうしても馴染めない。
昨日のドラマのことや遊びのこと、気に入らない上司や同僚の中傷‥‥そんな話題ばかりで盛り上がるヤツら。
くだらないと思って話題に加わらないでいたら、いつの間にか仲間はずれにされていた。
「アイツ、暗いんだよね」
「余りしゃべらないから、何考えてるか分からないのよね、あの人」
そう言われてもなぁ‥‥
何を話したらいいのか、どうすれば仲良くなれるのか、分からない。
一つだけはっきりしてること。
誰も自分を愛してくれない。
だからいつも独り。
外へ出ると、ひと呼吸置いて冷たい北風が頬を打った。空はドブネズミみたいな色してる、雪でも降るんじゃねぇか?
寒さに首をすくめて歩き始めると、目の前にカップルが現れる。幸せそうに笑ってやがる、クリスマスなんてとっくに終わっただろうが。すれ違うとまた別のカップルがいる。その向こうにも。
みんな、会社の人間と同じに見える。性格も同じなのか?そういえばみんな同じような格好してる。
そんな連中に興味はない。けど、なんでそんな連中にばかり、人は集まるのだろう?
分からない‥‥
やっぱり、分からない。
ありのままの自分を愛してほしい。
そんなに自分はすごい人間なのか?えらそーなこと言うな!
泣きたくなってきた。オレはどうすればいいんだよ‥‥
「ねぇ」
突然声を掛けられて、ふと我に返る。
「アタシと遊ばない?」
ちょっと低めのやわらかな声、明らかに若い女の声だ。まさか、自分に声を掛けたのか?
ミノルはその声を無視した。
まさか、な。こんなオレにわざわざ声を掛ける女がいる訳ない‥‥
そのまま立ち去ろうとする。しかし、何か得体の知れない魔力に後ろから引きつけられるような気がして、つい足を止めて声のした方を振り返る。
そのままミノルは口をポカンと開けたまま、しばらく呆然としてしまった。
黒い天使!?
そんなバカな?まぶたをパチパチして、思いっきり自分の目を疑う。思わず目をこすってみたりもする。
しかし、やっぱりそこに、確かに[天使]は存在した。
少し短めの黒くしなやかな髪、黒のダッフルコートと黒のブーツ、濃い紺色の細身のジーンズといういで立ちの、長身の女の子がそこにいてじっとこっちを見ていた。
どこか憂いを秘めた奇麗な瞳が、優しい視線をミノルに投げかける。
一目ぼれだった。
不思議な雰囲気を持った[天使]は、ガードレールに寄りかかりながらミノルに微笑みかけて小さく手招きする。
「こっちにおいで」
少しかすれた声が優しくミノルを誘う。
何でわざわざオレなんかに声をかけるんだろう?
そう思いつつも、すでに心は目の前の女にとらわれていた。
ゆっくり歩み寄っていくと、女はただ静かに微笑む。本当にオレのこと?と尋ねると、女はやっぱり微笑みながら、小さく頷いて答えた。胸がドキドキして舞い上がりそうになるのを必死に抑える。
細くて冷たい指に手をつながれて後をついていく。女は黙ったまま雑踏の中をゆっくりと歩いていく。
やがて女は足を止める。見ると空きビルとほとんどの窓がふさがれている雑居ビルの間に、人一人入れるぐらいの隙間があった。
その隙間のいちばん奥に連れ込まれて、壁際を背にして女と向かい合う。ネオンの明かりもここまでは入ってこなくて、中は薄暗い感じだった。
こんな所に連れて来て、一体何をするつもりだろう?
ここに来るまで、ミノルは女のことを信じきっていた。しかし、いきなりこんな所に連れ込まれるとさすがに不安になってくる。
暗がりの中、女はただクスクスと笑っていた。じっと覗き込む視線はミノルを捕えて離さない。
「何して遊ぼうか?」
女の甘い囁きに対して戸惑いを隠せない。自分に何をしようとしているのか全然解らない、そのことがゾクゾクと不安をあおる。
女はそっと腕を回して、身体をグッと引き寄せた。コートの袖のふんわりした感触が暖かく首筋をくるんで、顔が近付いて息遣いまで聞こえてくる。
急に抱き寄せられて一瞬ドキリとしたが、そのまま女の温もりに気を許してしまう。こういう温もりを今までミノルは知らなかった。包まれるような安心感が心を解きほぐして、くすぶる不安を溶かしていく。
あったかい。ずっとこのままで居たい‥‥
――ドスッ
突然だった。脇腹に突き刺さる衝撃が甘い幻想を破る。
鋭い痛みが走って、とっさに脇腹を押さえようとする手が何かに触れる。
そこには、自分に一撃を与えた女の拳が、まるで感触を味わうように突き刺さっていた。
「痛い?」
耳元で低く囁く声。突然の女の行動がまるで理解できない。戸惑っている間に再び脇腹に衝撃が走って、ジワジワと痛みが拡がっていく。
「痛いよね?」
耳元の意地悪な囁きが心を虐めて、痛みとともに冷たい恐怖感を呼び起こす‥‥
やがて女はそっと身体を離した。ズキズキ痛む脇腹を押さえながら女の表情をうかがうと、こっちを見つめて敵意があるような無いような、曖昧な薄笑いを浮かべている。
悪魔‥‥か?
背筋が凍り付くような恐怖感が全身を走る。このまま自分をどうするつもりだろう?思わず出口の方に目を向ける。
その瞬間、女が逃げ道をふさぐように迫って来て、ハッと驚く間もなく身体を冷たい壁に押し付ける。
「逃がさないよ‥‥」
次の瞬間、強い衝撃とともに女のヒザがみぞおちに突き刺さった。
全身に痺れが走って感覚が無くなる。息ができず、意識がもうろうとしてくる‥‥もう一撃。身体の奥深くまでジワジワと痛みが襲ってくる。
苦痛の中で、さっき抱かれた時の暖かな温もりを思い出す。あのまま自分を優しく包んでくれると思った女の温もりが、冷たく自分を痛めつける‥‥
「‥‥フフッ、このまま死んじゃえば?」
女は冷たくせせら笑いながら、一撃ずつ感触を楽しむように蹴りを入れる。
なんで‥‥?
ミノルに抵抗する力は無く、深い絶望が心を支配していった。女の冷たい蹴りが、心と身体をゆっくりと壊していく‥‥
そういえば、昔っからこうしてイジメられていたっけ。
どうせ、オレなんて‥‥
隔絶した薄暗い空間の中、しなやかな脚がミノルの下腹部に執拗に蹴りを入れる。
やがて手が離れると、ミノルの身体は力なく地面に崩れ落ちた。その様子を女はからかう様に見下ろす。
身体の芯に重い痛みがのしかかる。息が苦しくて力が入らない。怖い。苦しい‥‥
そんな時だった。心の中の独立した部分から、一つ疑問が浮かんでくる。
なんで、この女はオレのことを殴るんだろう?何か理由があるのだろうか?
その理由を知りたい‥‥その一心が身体を再び立ち上がらせた。痛みに顔をしかめながらも、女の表情をしっかり見据える。
女は明らかに驚いた顔をしてしばらくミノルを見つめていたが、やがて睨みつけるようにしながら顔を殴りつけて来た。
身体が壁にたたきつけられて、意識が飛んでいきそうになる。顔が割れるように痛い。
冷たい壁に寄りかかってなんとか堪えると、今度は襟首をグイッと引き寄せて、再び力任せに顔を殴る。鼻っ端がへし折られ血がすごい勢いで吹き出して、口の中が切れる感触がした。まるで自分の想いを拒絶するように、きつく睨みつけながら何発も殴りつけて来る。
すっかり無抵抗になった身体を引き付けて、女が再び腹に蹴りを入れ始める。一撃の感触はもう分からない。ただ息が苦しくなって、意識が少しずつ薄れていく‥‥
でも不思議なことに恐怖感はもう無くなっていて、むしろ蹴りを入れる女の温もりが愛おしいとさえ感じていた。感情が蒸発してしまったみたいに、女の一撃一撃を淡々と受け止める。
むしろ、女の方がどこか脅えているみたいだった。
なんで、この女はこんな事をするんだろう‥‥?
再び冷たい地面に倒れるとさっきよりも身体が動かなくなっている。鼻や口から流れる血が止まらない、そろそろヤバイかもしれないな‥‥
それでも視線だけは女の表情を追いかける。少し脅えた目でこっちを見ながらなぜか肩で息をしていて、口から吐き出される白い息が弾んでいた。
女はゆっくりと自分に近付いて来て、倒れた身体を無理矢理立ち上がらせた。
襟首を両手でつかんで、身体全体で支えるように密着する。壁を背にして全身で感じる温もりと、不意に押し付けられた胸のやわらかい感触が、目の前の人間がまぎれもない[女性]であることを主張する。
その時、なぜか身体から痛みがフッと抜けて楽になった気がした。一線を越えてしまったような、不思議な感覚に身を任せる。
女は白い息を一つついてから、今までのどの顔とも違う、真剣な顔をして自分の目を真っ正面から見据えた。それはこっちの意志をしっかりと確認するような眼差しだった。
「アタシが、怖くないの?」
意を決して女は言葉を口にする。
それからしばらく、二人の間に沈黙が流れた。
怖くは‥‥なかった。ただ目の前の女のことを少しでもいいから理解したいだけだった。こんな方法でも、心が通じ合えるならそれでいい‥‥
けど、そんな気持ちをすぐに言葉にできるほど、ミノルは器用ではなかった。気持ちに偽りはないのに、うまく伝えられないのがもどかしい。
鼻血が絶え間無く流れてうまく息ができずに、口でハーハーしながら女の瞳をしっかりと見据える。それがミノルにできる、精一杯の意思表示だった。
女はミノルをキッと睨みつけて、襟首を片手でつかんだまま再び脇腹に拳を突き刺す。
痛ってぇ‥‥
息を殺して、ズキズキする痛みを消化する。そんな自分の姿を、女は黙ったままじっと見つめていた。
一瞬だけ視線を交わした後、今度は自分の身体を両手で抱えながら、みぞおちの奥深くに強く蹴りを入れる。
電流が流れるような衝撃が身体に走って、ヒザから地面に崩れ落ちる。さすがにすぐには動けないけど、それでも意識だけは失わずに女の表情を見ると、笑うでもなく、真剣な瞳でこっちを見つめて、まるで再び立ち上がって来るのを待っているようだった。
痛みが引くのを待って、力を振り絞って立ち上がる。みぞおちを手で押さえてハァハァ言いながらも女に目線をしっかり合わせて、そのまま意志を交換するように見つめ合う。
一呼吸の沈黙。
――パシッ
突然、女の冷たい手が頬を打つ。一瞬ビックリするが‥‥痛くない。今まで自分を殴っていたのとは明らかにニュアンスの違う[一撃]だった。
「バカねぇ‥‥アンタ、ホントに死んじゃうよ」
強い想いを込めた女の囁きが身体に降り注いで、透き通った瞳が自分を凝視する。
次の瞬間、女は首筋と背中に腕を回して、ミノルの身体をそっと懐に入れた。
服の擦れる感触とともに、女の中に引き込まれる。コートの中のふんわりした感触に包まれて、冷え切った身体がほぐれていく。最初に抱かれた時、いやそれ以上に暖かい温もりに包まれて、トクントクンと鼓動が高鳴るのを感じた。
「もういいよ‥‥アタシの、負けだね」
低い声が耳元でポツリとつぶやいて、抱き締める腕にギュッと力が込もる。やわらかい感触に全身を包まれて、痛みが癒されていく様‥‥
ミノルにはこの感触が嬉しかった。少しだけ、心が通じ合えたみたいで‥‥
「‥‥ゴメン」
突然、女は唇を強く押し付けてきて、痛みを吸い取るように深く口づけする。初めての体験に、呆然として立ちすくんでしまう。
やわらかい舌が優しく中に入ってきて、いままで感じたことのない甘さと熱さで自分を包む。頭の芯がとろけてしまいそうに気持ちいい‥‥だが突然、ピリッとしみるような痛みが走る。さんざん殴られたおかげで口の中が切れていたのだった。その痛みを癒すつもりなんだろうか、熱い舌が傷口を執拗に責める。
あまりの痛さに唇を離そうとするが、頭の後ろを女の腕がしっかりと押さえていて動けない。甘酸っぱくて、時々ピリッと痛い、変な感触がミノルのファースト・キスだった‥‥
唇が離れると、ピリピリした痛みがやっとおさまる。戸惑うミノルの姿を見て、女は少しだけ微笑みながらそっと囁いた。
「アリガトウ」
穏やかな笑顔を見せながら、女がもう一度抱き締める。ミノルにはその意味が、なんとなく分かる気がした。不器用な[優しさ]が、心を甘く満たしていく‥‥
「名前、なんて言うの?」
至ってシンプルな質問に、照れくさくて視線を外らしながら答える。
「ミノル‥‥」
「ミノル君‥‥か」
女はミノルを逃がさないように視線を合わせて、答えた。
「アタシは‥‥樹っていうんだ」
「樹‥‥?」
確かめるようにその名前を口にすると、女は少し口元を緩めながら、黙ってうなずいた。
空はいつの間に漆黒の闇に覆われていた。お互いの顔もよく見えなくなってきたけど、樹とミノルはじっと見つめ合った。二人の間の冷たい空気に、一瞬だけ[愛]の様なものが凝縮された‥‥気がした。
「じゃあね」
次の瞬間、女は身体を翻して逃げていった。ミノルは後を追おうとするが、その時全身に痛みが甦って身体が動かなくなり、そのままその場に倒れ込んでしまう。
横たわった身体に寒さが染み込んで、空を見上げると白いものが次々と落ちてくる。それが身体の上に降り積もって、たちまち背中が真っ白になる。冷たい‥‥ミノルはしばらくその場から動けなかった。