遥は懐中電灯を点灯した。
あたりはすっかり闇に包まれた。圧倒的な、体ごとすっぽりと呑み込まれるような暗闇が四方に広がっている。
ここは自殺の名所。
そして有名な心霊スポットだ。
魔の地として有名な青木ヶ原の樹海の中には、遊歩道があちこちに伸びている。遭難防止のためでもあり、フィトンチッドだのマイナスイオンだのの効能を信じ、森を歩くのを好む人間が多いせいでもあるのだろう。だが、決められた道に従って歩いても、面白くも何ともない。
遥は遊歩道からひょいと外れ、枯れ草を踏み分けながら、南東の方角に向かって歩き出した。方位磁石があるわけではないが、何となくカンで「南東」だとわかるのだ。その動物的なカンは、いまだかつて外れたことがない。それに、一度目にしたものは決して忘れないという、我ながら異常とも思える記憶力のため、道に迷った経験は皆無だ。
「榎本、どこ行くんだよ」
後ろから楢崎の声が追ってきた。
「死体発見しに」
「死体ぃ?」
「幽霊でもいいけどな」
「戻れよ。遊歩道から外れちゃダメだ」
「じゃ、お前は外れなきゃいいだろ」
「榎本!」
腕を掴まれた。
「もう戻ろう。こんな暗いとこ歩いてたって、しょうがないって」
「ビビッてんのか? 手が震えてるぜ」
「寒いんだよ」
「寒いなら焚き火でもしてな。あたしは歩く」
「ここらへんは焚き火なんか禁止だよ。原生林は貴重なんだから、自然破壊につながるだろ」
「エセ・ナチュラリストめ」
遥は笑った。
「ひとりで車に戻れよ。あたしはここにいる。この場所が気にいった」
ジャケットのポケットから車のキーを取り出し、楢崎の手に押し付けると、掴まれた腕を振り払って歩き出した。
「戻れ?」
楢崎はうなるような声を出した。
「人を引きずり回して、こんなとこまで連れてきて、よくそういう事が言えるよな。人を何だと思ってるんだよ!」
「おーこわ」
遥はくるりと振り向いた。
こうるさい、健全なおぼっちゃま。
いちいち押し問答をするのは面倒だ。退散させてやろう。
「ふうん、知りたいのか? あたしがお前をどう思ってるか」
楢崎の顔に懐中電灯の光をあて、くるくると動かした。楢崎は眩しそうに顔をそむける。可哀想な小羊ちゃんの顔だ。
「やめろよ」
「お前はなあ、鈍いおぼっちゃまで、くだらねえカッコつけで、小心者で、女ひとり満足させることのできない、腑抜けだよ」
楢崎の顎がピクリと動いた。
「るりの話をしようか」
「_______ 」
「お前、るりがどんな女か、まだ知らないだろう」
「え・・?」
「あいつはなあ、隠れインランで、いつもお前に抱かれたくて、うずうずしてるような女だ。・・・ロクにセックスしてやってないんだろ? あいつは今や、慢性欲求不満状態だぜ。顔を見れば、あたしにはわかるんだ」
「な・・」
「嘘だと思うなら、本人に直接聞いてみろ」
楢崎は絶句している。返す言葉が見つからないようだ。
「るりも気の毒になあ。インポの彼氏を持ったんじゃ」
楢崎にゆっくりと近づき、耳のなかに、追いうちの言葉を吹き込んだ。
「ああ、インポじゃないか。さっき勃ったもんな?」
次の瞬間、突き飛ばされた。今度は木に背中がぶつかったので、尻餅をつかずにすんだ。
「サイテー女」
楢崎は小さく吐きすてると背中を向け、遊歩道の方角に歩き出した。
「そりゃーさっきも聞いたぜ」
遥は小声で言い、少し笑った。楢崎の懐中電灯が次第に小さくなり、木々の間に消えた。
「さて・・」
また南東の方角に顔を向け、暗闇のなかに足を踏み出す。
「死体や幽霊はどこにいるのやら、だ」
自殺の名所なら、もっとそれらしく色々と出してほしいものだ。
頭上で、バサバサと音がした。鳥の羽音のようだ。
懐中電灯が照らす先しか、目には何も映らない。生きたまま氷の彫刻になりかねない寒さの、真の闇のなかを散歩している自分が間抜けに思えるが、恐怖は感じない。
やはり、自分という人間は、どこか異常なのだと再認識する。「恐怖」は必要不可欠な本能のうちのひとつだ。それが欠けているとなれば、まず長生きは望めない。
「美人薄命っていうしな」
ひとりでニヤリと笑い、ジャケットからウオッカの小瓶を取り出して、一口飲んだ。ついでにチョコレートを口に放り込む。買った「非常食」というのは、つまりこの二つだ。
______ 恐怖か・・。いや、違う。あたしにも、怖いことくらいある。
ひとりの男のことを思った。
たった一つの恐怖が、その男に附随している。
彰が生活に入り込む前は、彰がいなくても平気だった。だが今は、彼がいなくては生活がなりたたない。彼を失えば、遥の何もかもが崩れていく。
実に情けなくて、笑い出したくなる。だが、それが遥の抱える、唯一の恐怖なのだ。
遥はラブストーリーが嫌いだ。その手の映画も小説もマンガもくだんない、ゴミクズ同然、とマジで軽蔑している。
なのに、世界中どこにでも転がっている、陳腐でくだらないラブストーリーを、自分もまた地でやっている、この滑稽さといったらない。
「白骨死体くらい気前良く見せろっつーんだ、畜生・・・」
遥はつぶやいた。
歩けども歩けども、ただの森。ただの闇だ。
冬枯れの原生林を探検しても、ウブな人間をからかって遊んでも、あの面影は片時も去ることはない。遥のなかにでんと居座るあの男は、頭のなかで可愛らしく笑っている。
会いたい、と思った。
彰に会いたい。
______ 彰。なあ、まったくさ・・・あんたはあたしに何をしたんだよ? 催眠術でもかけたのか? あたしはどうしてこんなに会いたいんだ、いつも、いつも、あんたに。
ウオッカのせいではなく、胃のあたりが焦がれて、焼けそうだった。
遥は懐中電灯を消し、枯れ草の上にあぐらをかいて座った。
懐中電灯を消したところで、闇を蠢く夜行性のヤツらには、簡単に見えてしまうのだろう。今にも泣き出しそうな、だらしない、バカまるだしの女の顔が。
11.
彰は斜面を見上げた。
確かに、かなり危険な賭けだ。
だが、るりちゃんをここに置いて、一人で下山してしまったら、きっと心細さでまた泣くのに違いない。こっちも二度手間になるから、今、ちょっと無理したほうがお互いのためだ。
彰はジャケットを脱ぎ、るりちゃんに背中を向けて腰を落とした。
「おぶさって」
「ホントに・・登るんですか」
「いいから早く。痛くてもちゃんと掴まってろよ」
「・・はい」
両腕が彰の肩に巻き付いた。彼女の体と自分の体をジャケットできつく縛り上げ、リュックを首に引っ掛けると、彰は立ち上がった。軽い。おんぶ自体はなんてことはない。だが、左手でるりちゃんの脚を抱えているから、使えるのは右手だけだ。
彰は深呼吸をひとつすると、斜面を登り始めた。
確実な足場を探すのに、時間がかかる。ナメクジのように、のったりとしか登れない。足がズルッとすべり、心臓と陰嚢が縮み上がった。緊張のため、額から汗が流れ落ちた。
るりちゃんはギュッとしがみついている。息をひそめているが、彼女のかすかな震えが、彰にも伝わる。
「大丈夫だから」
彰はあえて力強い声をだした。俺ってなんて男らしいの、などとうっとりしている余裕はぜんぜんない。
新しい足場を捜し、次に右手を動かす。
延々たるその繰り返しだ。高さが増すにつれ、恐怖も高まっていく。
もし、今、バランスを崩して落ちたら、自分はともかく、るりちゃんは無事ではすまないだろう。
_____ 遥さま。遥大明神さま。俺の天使。どうか助けてください。
彼女がここにいれば、どれだけ心強いだろうか。
ケンカのことなどすっかり忘れ、彰は一心不乱に彼女の顔を思い浮かべた。
彰を力強くも、子供のようにもさせる女。
そして、不思議な幸運をもたらす女。
彼女が「ヒマつぶしだ」と言って、応援に来てくれる練習試合は、ほぼ100%の確率で勝てる。集団行動を好まない彼女は、いつもひとりで来て、黙って観ている。時々、ナンパ野郎が話しかけたりもするが、遥は「試合見てるんだよ。邪魔だボケ」という鋭い罵りをぶつけ、平静な顔をダイアモンドに戻すのだ。
「ねーねー、俺ってプロになれると思う?」
彰は、遥にそう聞いた。
先週、重要な練習試合に勝った直後のことだ。彰は5打数4安打の華々しい個人成績を達成し、ひどく高揚していた。
「自分ではどう思うんだよ」
遥は聞いた。
「え? うーん、なれればいいとは思うけどさ~」
謙遜してみせ、ドキドキしながら遥の言葉を待った。
「じゃあ賭けをしようか」
彼女は、彰の額に唇をつけて笑った。
「彰がプロになれなかったら、あたしは渋谷のど真中でストリップをしてやるよ・・」
右手が、てっぺんを掴んだ。
あともう少しだ。
「国坂先輩。大丈夫ですか?」
るりちゃんの問いに、荒い息だけを返す。苦しい。全身汗まみれだ。
左足、右足、と慎重に動かし、最後はつんのめるように、道の上にうつ伏せになった。ああ、平らな地面だ、と目に涙が滲んだ。平らって、なんてありがたいのだろうか。
「先輩・・先輩」
話しかけるなっつーの。返事なんかできるかっつーの。
首、背中、手足、指に至るまで、あらゆる筋肉が痙攣している。体の酷使のためというよりは、緊張が激しすぎたためだ。
_____ あー怖かった。マジで死ぬかと思った。
指が震えているので、固く結んだジャケットを取り去ることができなかった。なんとか外すことに成功すると、るりちゃんを降ろし、仰向けに転がった。
「これ、飲んで下さい」
るりちゃんが差し出したものは、ペットボトルの水だった。
「あたしの飲みかけでごめんなさい。でも飲んで」
「あー・・」
ペットボトルを受け取り、一気にごくごくと飲み干す。一時的な酸欠状態に陥ったのか、グラッとめまいがした。
「ありがとうございました。本当にごめんなさい」
るりちゃんは、ペコッと頭を下げた。
「や・・礼を言うのはまだ早い。ふもとまで降りなきゃだからな・・」
最大の難関はクリアしたから、あとはまあ何とかなるだろう。彼女をおぶっていくのは多少辛いが、筋トレの一環だと思えばきっと頑張れる。
「あたし、歩きますから」
るりちゃんは、妙にキリッとした声で言った。
「無理だろ、そんなんじゃ」
「痛いのは右の足首だけだから、支えてくれれば、歩けます」
リュックを背負い、山肌に手をついて立とうとした。無理をしているのは、ひとめでわかる。男ならスパルタで歩かせるところだが、彰と30cmも身長の違う、見るからにか細い女の子に同じことをさせる訳にはいかない。
「いいから乗れ」
彰は彼女に背中を向け、指図をした。
______ あんたは、めちゃめちゃいい根性をしてる。
遥は以前、そうホメてくれたことがあった。5人を相手に、喧嘩をしたときのことだ。
彼女はもう東京に戻っているだろうか。さっさと仲直りして、思いきり抱き締めたい。あの長い腕できつく抱き締めてもらいたい・・。
るりちゃんを背負い、頂上に向かってゆっくりと歩き出した。もっと足場のいい、整備されたコースに戻るつもりだった。
「辛くなったら、言ってください・・本当に歩きますから」
案じるような声が、耳もとで囁く。
ああ、女の子の声だな・・と何となく思った。
快い響きだ。
かよわいけど、とても優しくて、ほのかな強さがある。
洋輔は、いつも彼女のこんな声を聞き、安らぎを得ているのかもしれない。
本当にエライ目にあったが、こうなった以上は、無事に家まで連れ戻してやらねばならない。自分にはその責任がある。なぜなら磯村るりという女の子は、親友である洋輔が心から好きになった、ふたつとない『宝物』だからだ。
12.
洋輔は車の助手席に座り、寒さに震えていた。大気汚染に加担するので、アイドリングには抵抗があるのだが、もう選択の余地はない。暖房なしでは凍死してしまう。
「どーせ、俺はエセ・ナチュラリストだよ」
つぶやきながらイグニッションキーを回し、エンジンをかけた。しばらくすると、車内は十分に温まり、人心地ついたので、シートにもたれかかった。
考えまいとしても、榎本の言葉が、ひとつひとつ頭に蘇ってくる。
_____ あいつは今や、慢性欲求不満状態だぜ。
そんなバカな、と思う。
あの彼女が、そのテの不満を抱くなど、あまりに似つかわしくない。ありえない。
るりの姿を思い浮かべるとき、いつも真っ先に頭に浮かぶのは、あの夏休みの出来事だ。その前から彼女の存在は、なんとなく知っていた。愛らしく整った顔は、女子のなかでも目立っていたからだ。
あの夏の日、彼女はグラウンドの片隅に現れ、サッカーの練習を見つめていた。
ピンクのミニスカート。遠目にも存在感を放つ大きな瞳に、サラサラとなびく髪。
背は小さいが、華奢でバランスのとれた体つきをしていた。
彼女が現れるたびに、「あ、また来てる、あの子」と、部員の誰かが必ず言った。
「可愛いよなー。俺、ケッコー好み」
「一年だろ。なんて名前だっけ」
「えーと、磯野とか、磯村だったかな・・確か」
そんな声に、なぜか軽い嫉妬を覚えた。思い切って彼女に話しかけたとき、るりはいたずらな笑みを浮かべて洋輔を見つめた。太陽の光を受けて、キラッと光る瞳。かたちのいい口もと。無邪気な表情に似合わない、挑発的な言葉が、彼女の唇から囁かれた。
_____ 女の子の名前が知りたければ、自分で調べなさい。
前々から顔だけは知っていたのだから、この表現はふさわしくないのかもしれない。だが、洋輔は磯村るりに「ひとめ惚れ」をしたのだ。つきあっている彼女がいたのに、るりに心を奪われた。
あの挑発的な彼女が、本当の彼女の姿ではないことは、すぐにわかった。
男とキスをしたこともないバージンで、呆れるほど何も知らない女の子。なのに、そうするのが当然だとばかりに、洋輔に身を投げ出してきた。
彼女は、やがて洋輔の宝物になった。
目を見交わすたびに、彼女の瞳は「好き」と囁く。
キスをすれば、いつも甘く応えてくれる。
その彼女と、セックスをしたくないはずがない。二人きりでいれば、衝動がこみあげることもある。だが、自分は、例えば彰のような男とは違うのだ。好きな女の子を相手に、貪り尽すようなセックスなんかできない。少なくとも、るりに関しては、腕のなかでそっと抱いていてあげたいと思う。
るりは、それが不満だったというのだろうか。あの笑みのなかに、そんな影は少しもなかったのに。
______ あんたは鈍いおぼっちゃんで、くだらねえカッコつけで・・。
榎本の言葉がまた頭をよぎった。
「大きなお世話だって」
憤懣の独り言が口から飛び出す。
くだらないカッコつけ。
それは、洋輔自身のひそかな自己評価でもあるからこそ、こんなに傷つくのだ。
今まで、サッカーも勉強も、人の10倍は努力してきた。誰のためでもない。自分自身のためにそうしてきたのだが、るりがそういう自分を好きになったのなら、そのレベルをいつまでも維持していきたいと、変な見栄が働くようになった。
嫌われたくはない。いい顔だけを見せていたい。るりにとって、頼りがいのある男でいたい。あからさまな性欲を見せたくはない・・。
そう、それが本当の自分なのだ。
好きだからこそ、本音で向かい合うことを恐れる、臆病な人間。
「るり・・」
彼女はどうなのだろう。
怒っても膨れても、決してタガを外さない彼女。まるで「ネガティブな感情を見せるのはここまで」と、きっちりと線引きをしているかのように、常に笑顔を用意しているるりは、本当のるりなのだろうか。
彼女と話がしたい。今すぐに、声が聞きたい。
洋輔はケータイを取り出し、るりに電話をかけた。だが、つながらなかった。ケータイの電源を切っているのか、あるいは電車にでも乗っているのか。
_____ とにかく、ひっぱたいてでも榎本を連れ戻して、東京に帰らなきゃ・・。
洋輔は懐中電灯を持ち、車外に出た。
遊歩道に戻り、誰もいない暗闇を歩き出した。
「榎本!」
「何だよ」
左手から、即座に返事がかえってきた。
洋輔の手から懐中電灯が落ち、ゴンと音をたてて転がった。
「ふふ・・一人が寂しくなったのか?」
闇のなかから、白いジャケットが現れた。懐中電灯を自分の顔の下にあて、ニヤニヤ笑いを浮かび上がらせる。
「帰ろう。いい加減にしないと、電車がなくなる」
懐中電灯を拾い上げながら、動揺を見せたことが悔しくなった。全くみっともない。この女には、感情を乱されっぱなしだ。
「へいへい」
榎本は洋輔の前を歩き出しながら、何かをひとくち飲んだ。良く見えないが、酒の小ビンのようだ。
「ちょっとおい。何飲んでるんだよ」
「ストリチナヤ。チョコレートとあうんだよな、これが」
呆気にとられ、口が大きく開いた。
「飲んでちゃ・・運転できないじゃないか」
「これくらいで酔うあたしかよ。よろしければ、おぼっちゃまもどうぞ」
要らないと断わるかわりに、洋輔はなぜか瓶を受け取ってしまった。少量の酒を口に含んで飲み下すと、喉がカッと焼けた。
「なあ、楢崎」
榎本は立ちどまり、振り返った。
「なんだよ」
「ついでに教えてやろうか」
「え?」
「るりが喜ぶキスのしかたを教えてやる」
「は?」
榎本の行動は素早かった。気がつくと、もう首と胴を抱えられ、体と体が密着していた。
「おい、なに・・」
顔が一気に熱くなり、心臓の鼓動が倍加した。
「今度は突きとばすなよ。これはただのレクチャーだからな」
「やめろって。ちょっ・・」
ふふ、と笑いながら、榎本の唇が近づいてきた。
柔らかなものが触れた。
唇の内側を、舌でぐるりとなぞられる。くねる舌が奥に侵入し、情熱的なディープキスになった。
キスなどというものではない。この動物的な行為はまるで、一種のセックスだ。
「ん・・」
全身に鳥肌が立ち、ペニスが固さを増したのがわかった。
いったい自分は何をしているのだろうか。
なぜ、この変態女の言うなりになって、キスなどされているのだろうか。
「やめろって・・!」
顔を上にあげ、執拗な唇を避けた。
「・・興奮するだろ?」
榎本は平静な声で言った。小馬鹿にしたような表情は消えていた。
「正直に答えろ。興奮しただろ?」
「・・したよ」
不承不承答えると、榎本は洋輔の体を解放した。
「じゃあ帰ったら、続きはるりとしろ。お前が抱く女は、あいつだからな」
車に戻り、運転席に乗り込むと、榎本は小さな声で言った。
「そして、あたしの続きは、あの単細胞の野球バカ」
ケロリとした顔で洋輔に視線をやった彼女の目のなかには、表情を裏切るものが浮かんでいた。洋輔を見ていながら、全く別のものを_____ いや、別の男を、その向こうに見ている。
ああ、こいつは自分と同じだ・・と洋輔は思った。
特別な誰かを心の中に住まわせている、ひとりの人間の目だ。
「早く帰ろう」
前を向き、洋輔は言った。なぜだか、少しばかり心が暖かく切なくなり、泣きたいような気持ちになっていた。
「ああ」
榎本はうなずいた。
「帰ったら、彰にちゃんと謝れよな」
洋輔は言った。
「らじゃ」
榎本は清潔な歯並びを見せて笑った。