Four Pieces of Green Fruit5

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アダルトな読み物のお部屋

Four Pieces of Green Fruit5
2021年07月27日 00時34分

 遥は懐中電灯を点灯した。

 あたりはすっかり闇に包まれた。圧倒的な、体ごとすっぽりと呑み込まれるような暗闇が四方に広がっている。

 ここは自殺の名所。

 そして有名な心霊スポットだ。

 魔の地として有名な青木ヶ原の樹海の中には、遊歩道があちこちに伸びている。遭難防止のためでもあり、フィトンチッドだのマイナスイオンだのの効能を信じ、森を歩くのを好む人間が多いせいでもあるのだろう。だが、決められた道に従って歩いても、面白くも何ともない。

 遥は遊歩道からひょいと外れ、枯れ草を踏み分けながら、南東の方角に向かって歩き出した。方位磁石があるわけではないが、何となくカンで「南東」だとわかるのだ。その動物的なカンは、いまだかつて外れたことがない。それに、一度目にしたものは決して忘れないという、我ながら異常とも思える記憶力のため、道に迷った経験は皆無だ。

「榎本、どこ行くんだよ」

 後ろから楢崎の声が追ってきた。

「死体発見しに」

「死体ぃ?」

「幽霊でもいいけどな」

「戻れよ。遊歩道から外れちゃダメだ」

「じゃ、お前は外れなきゃいいだろ」

「榎本!」

 腕を掴まれた。

「もう戻ろう。こんな暗いとこ歩いてたって、しょうがないって」

「ビビッてんのか? 手が震えてるぜ」

「寒いんだよ」

「寒いなら焚き火でもしてな。あたしは歩く」

「ここらへんは焚き火なんか禁止だよ。原生林は貴重なんだから、自然破壊につながるだろ」

「エセ・ナチュラリストめ」

 遥は笑った。

「ひとりで車に戻れよ。あたしはここにいる。この場所が気にいった」

 ジャケットのポケットから車のキーを取り出し、楢崎の手に押し付けると、掴まれた腕を振り払って歩き出した。

「戻れ?」

 楢崎はうなるような声を出した。

「人を引きずり回して、こんなとこまで連れてきて、よくそういう事が言えるよな。人を何だと思ってるんだよ!」

「おーこわ」

 遥はくるりと振り向いた。

 こうるさい、健全なおぼっちゃま。

 いちいち押し問答をするのは面倒だ。退散させてやろう。

「ふうん、知りたいのか? あたしがお前をどう思ってるか」

 楢崎の顔に懐中電灯の光をあて、くるくると動かした。楢崎は眩しそうに顔をそむける。可哀想な小羊ちゃんの顔だ。

「やめろよ」

「お前はなあ、鈍いおぼっちゃまで、くだらねえカッコつけで、小心者で、女ひとり満足させることのできない、腑抜けだよ」

 楢崎の顎がピクリと動いた。

「るりの話をしようか」

「_______ 」

「お前、るりがどんな女か、まだ知らないだろう」

「え・・?」

「あいつはなあ、隠れインランで、いつもお前に抱かれたくて、うずうずしてるような女だ。・・・ロクにセックスしてやってないんだろ? あいつは今や、慢性欲求不満状態だぜ。顔を見れば、あたしにはわかるんだ」

「な・・」

「嘘だと思うなら、本人に直接聞いてみろ」

 楢崎は絶句している。返す言葉が見つからないようだ。

「るりも気の毒になあ。インポの彼氏を持ったんじゃ」

 楢崎にゆっくりと近づき、耳のなかに、追いうちの言葉を吹き込んだ。

「ああ、インポじゃないか。さっき勃ったもんな?」

 次の瞬間、突き飛ばされた。今度は木に背中がぶつかったので、尻餅をつかずにすんだ。

「サイテー女」

 楢崎は小さく吐きすてると背中を向け、遊歩道の方角に歩き出した。

「そりゃーさっきも聞いたぜ」 

 遥は小声で言い、少し笑った。楢崎の懐中電灯が次第に小さくなり、木々の間に消えた。

「さて・・」

 また南東の方角に顔を向け、暗闇のなかに足を踏み出す。

「死体や幽霊はどこにいるのやら、だ」

 自殺の名所なら、もっとそれらしく色々と出してほしいものだ。

 頭上で、バサバサと音がした。鳥の羽音のようだ。

 懐中電灯が照らす先しか、目には何も映らない。生きたまま氷の彫刻になりかねない寒さの、真の闇のなかを散歩している自分が間抜けに思えるが、恐怖は感じない。

 やはり、自分という人間は、どこか異常なのだと再認識する。「恐怖」は必要不可欠な本能のうちのひとつだ。それが欠けているとなれば、まず長生きは望めない。

「美人薄命っていうしな」

 ひとりでニヤリと笑い、ジャケットからウオッカの小瓶を取り出して、一口飲んだ。ついでにチョコレートを口に放り込む。買った「非常食」というのは、つまりこの二つだ。

 

 ______ 恐怖か・・。いや、違う。あたしにも、怖いことくらいある。

 ひとりの男のことを思った。

 たった一つの恐怖が、その男に附随している。

 彰が生活に入り込む前は、彰がいなくても平気だった。だが今は、彼がいなくては生活がなりたたない。彼を失えば、遥の何もかもが崩れていく。

 実に情けなくて、笑い出したくなる。だが、それが遥の抱える、唯一の恐怖なのだ。

 遥はラブストーリーが嫌いだ。その手の映画も小説もマンガもくだんない、ゴミクズ同然、とマジで軽蔑している。

 なのに、世界中どこにでも転がっている、陳腐でくだらないラブストーリーを、自分もまた地でやっている、この滑稽さといったらない。

「白骨死体くらい気前良く見せろっつーんだ、畜生・・・」

 遥はつぶやいた。

 歩けども歩けども、ただの森。ただの闇だ。

 冬枯れの原生林を探検しても、ウブな人間をからかって遊んでも、あの面影は片時も去ることはない。遥のなかにでんと居座るあの男は、頭のなかで可愛らしく笑っている。

 会いたい、と思った。

 彰に会いたい。

 ______ 彰。なあ、まったくさ・・・あんたはあたしに何をしたんだよ? 催眠術でもかけたのか? あたしはどうしてこんなに会いたいんだ、いつも、いつも、あんたに。

 ウオッカのせいではなく、胃のあたりが焦がれて、焼けそうだった。

 遥は懐中電灯を消し、枯れ草の上にあぐらをかいて座った。

 懐中電灯を消したところで、闇を蠢く夜行性のヤツらには、簡単に見えてしまうのだろう。今にも泣き出しそうな、だらしない、バカまるだしの女の顔が。

11.

 彰は斜面を見上げた。

 確かに、かなり危険な賭けだ。

 だが、るりちゃんをここに置いて、一人で下山してしまったら、きっと心細さでまた泣くのに違いない。こっちも二度手間になるから、今、ちょっと無理したほうがお互いのためだ。

 彰はジャケットを脱ぎ、るりちゃんに背中を向けて腰を落とした。

「おぶさって」

「ホントに・・登るんですか」

「いいから早く。痛くてもちゃんと掴まってろよ」

「・・はい」

 両腕が彰の肩に巻き付いた。彼女の体と自分の体をジャケットできつく縛り上げ、リュックを首に引っ掛けると、彰は立ち上がった。軽い。おんぶ自体はなんてことはない。だが、左手でるりちゃんの脚を抱えているから、使えるのは右手だけだ。

 彰は深呼吸をひとつすると、斜面を登り始めた。

 確実な足場を探すのに、時間がかかる。ナメクジのように、のったりとしか登れない。足がズルッとすべり、心臓と陰嚢が縮み上がった。緊張のため、額から汗が流れ落ちた。

 るりちゃんはギュッとしがみついている。息をひそめているが、彼女のかすかな震えが、彰にも伝わる。

「大丈夫だから」

 彰はあえて力強い声をだした。俺ってなんて男らしいの、などとうっとりしている余裕はぜんぜんない。

 新しい足場を捜し、次に右手を動かす。

 延々たるその繰り返しだ。高さが増すにつれ、恐怖も高まっていく。

 もし、今、バランスを崩して落ちたら、自分はともかく、るりちゃんは無事ではすまないだろう。

 _____ 遥さま。遥大明神さま。俺の天使。どうか助けてください。

 彼女がここにいれば、どれだけ心強いだろうか。

 ケンカのことなどすっかり忘れ、彰は一心不乱に彼女の顔を思い浮かべた。

 彰を力強くも、子供のようにもさせる女。

 そして、不思議な幸運をもたらす女。

 彼女が「ヒマつぶしだ」と言って、応援に来てくれる練習試合は、ほぼ100%の確率で勝てる。集団行動を好まない彼女は、いつもひとりで来て、黙って観ている。時々、ナンパ野郎が話しかけたりもするが、遥は「試合見てるんだよ。邪魔だボケ」という鋭い罵りをぶつけ、平静な顔をダイアモンドに戻すのだ。

「ねーねー、俺ってプロになれると思う?」

 彰は、遥にそう聞いた。

 先週、重要な練習試合に勝った直後のことだ。彰は5打数4安打の華々しい個人成績を達成し、ひどく高揚していた。

「自分ではどう思うんだよ」

 遥は聞いた。

「え? うーん、なれればいいとは思うけどさ~」

 謙遜してみせ、ドキドキしながら遥の言葉を待った。

「じゃあ賭けをしようか」

 彼女は、彰の額に唇をつけて笑った。

「彰がプロになれなかったら、あたしは渋谷のど真中でストリップをしてやるよ・・」

 

 右手が、てっぺんを掴んだ。

 あともう少しだ。

「国坂先輩。大丈夫ですか?」

 るりちゃんの問いに、荒い息だけを返す。苦しい。全身汗まみれだ。

 左足、右足、と慎重に動かし、最後はつんのめるように、道の上にうつ伏せになった。ああ、平らな地面だ、と目に涙が滲んだ。平らって、なんてありがたいのだろうか。

「先輩・・先輩」

 話しかけるなっつーの。返事なんかできるかっつーの。

 首、背中、手足、指に至るまで、あらゆる筋肉が痙攣している。体の酷使のためというよりは、緊張が激しすぎたためだ。

 _____ あー怖かった。マジで死ぬかと思った。

 指が震えているので、固く結んだジャケットを取り去ることができなかった。なんとか外すことに成功すると、るりちゃんを降ろし、仰向けに転がった。

「これ、飲んで下さい」

 るりちゃんが差し出したものは、ペットボトルの水だった。

「あたしの飲みかけでごめんなさい。でも飲んで」

「あー・・」

 ペットボトルを受け取り、一気にごくごくと飲み干す。一時的な酸欠状態に陥ったのか、グラッとめまいがした。

「ありがとうございました。本当にごめんなさい」

 るりちゃんは、ペコッと頭を下げた。

「や・・礼を言うのはまだ早い。ふもとまで降りなきゃだからな・・」

 最大の難関はクリアしたから、あとはまあ何とかなるだろう。彼女をおぶっていくのは多少辛いが、筋トレの一環だと思えばきっと頑張れる。

「あたし、歩きますから」

 るりちゃんは、妙にキリッとした声で言った。

「無理だろ、そんなんじゃ」

「痛いのは右の足首だけだから、支えてくれれば、歩けます」

 リュックを背負い、山肌に手をついて立とうとした。無理をしているのは、ひとめでわかる。男ならスパルタで歩かせるところだが、彰と30cmも身長の違う、見るからにか細い女の子に同じことをさせる訳にはいかない。

「いいから乗れ」

 彰は彼女に背中を向け、指図をした。 

 ______ あんたは、めちゃめちゃいい根性をしてる。

 遥は以前、そうホメてくれたことがあった。5人を相手に、喧嘩をしたときのことだ。

 彼女はもう東京に戻っているだろうか。さっさと仲直りして、思いきり抱き締めたい。あの長い腕できつく抱き締めてもらいたい・・。

 るりちゃんを背負い、頂上に向かってゆっくりと歩き出した。もっと足場のいい、整備されたコースに戻るつもりだった。

「辛くなったら、言ってください・・本当に歩きますから」

 案じるような声が、耳もとで囁く。

 ああ、女の子の声だな・・と何となく思った。

 快い響きだ。

 かよわいけど、とても優しくて、ほのかな強さがある。

 洋輔は、いつも彼女のこんな声を聞き、安らぎを得ているのかもしれない。

 本当にエライ目にあったが、こうなった以上は、無事に家まで連れ戻してやらねばならない。自分にはその責任がある。なぜなら磯村るりという女の子は、親友である洋輔が心から好きになった、ふたつとない『宝物』だからだ。 

12.

 洋輔は車の助手席に座り、寒さに震えていた。大気汚染に加担するので、アイドリングには抵抗があるのだが、もう選択の余地はない。暖房なしでは凍死してしまう。

「どーせ、俺はエセ・ナチュラリストだよ」

 つぶやきながらイグニッションキーを回し、エンジンをかけた。しばらくすると、車内は十分に温まり、人心地ついたので、シートにもたれかかった。

 考えまいとしても、榎本の言葉が、ひとつひとつ頭に蘇ってくる。

  _____ あいつは今や、慢性欲求不満状態だぜ。

 そんなバカな、と思う。

 あの彼女が、そのテの不満を抱くなど、あまりに似つかわしくない。ありえない。 

 るりの姿を思い浮かべるとき、いつも真っ先に頭に浮かぶのは、あの夏休みの出来事だ。その前から彼女の存在は、なんとなく知っていた。愛らしく整った顔は、女子のなかでも目立っていたからだ。

 あの夏の日、彼女はグラウンドの片隅に現れ、サッカーの練習を見つめていた。

 ピンクのミニスカート。遠目にも存在感を放つ大きな瞳に、サラサラとなびく髪。

 背は小さいが、華奢でバランスのとれた体つきをしていた。

 彼女が現れるたびに、「あ、また来てる、あの子」と、部員の誰かが必ず言った。

「可愛いよなー。俺、ケッコー好み」

「一年だろ。なんて名前だっけ」

「えーと、磯野とか、磯村だったかな・・確か」

 そんな声に、なぜか軽い嫉妬を覚えた。思い切って彼女に話しかけたとき、るりはいたずらな笑みを浮かべて洋輔を見つめた。太陽の光を受けて、キラッと光る瞳。かたちのいい口もと。無邪気な表情に似合わない、挑発的な言葉が、彼女の唇から囁かれた。

 _____ 女の子の名前が知りたければ、自分で調べなさい。

 前々から顔だけは知っていたのだから、この表現はふさわしくないのかもしれない。だが、洋輔は磯村るりに「ひとめ惚れ」をしたのだ。つきあっている彼女がいたのに、るりに心を奪われた。

 あの挑発的な彼女が、本当の彼女の姿ではないことは、すぐにわかった。

 男とキスをしたこともないバージンで、呆れるほど何も知らない女の子。なのに、そうするのが当然だとばかりに、洋輔に身を投げ出してきた。

 彼女は、やがて洋輔の宝物になった。

 目を見交わすたびに、彼女の瞳は「好き」と囁く。

 キスをすれば、いつも甘く応えてくれる。

 その彼女と、セックスをしたくないはずがない。二人きりでいれば、衝動がこみあげることもある。だが、自分は、例えば彰のような男とは違うのだ。好きな女の子を相手に、貪り尽すようなセックスなんかできない。少なくとも、るりに関しては、腕のなかでそっと抱いていてあげたいと思う。

 るりは、それが不満だったというのだろうか。あの笑みのなかに、そんな影は少しもなかったのに。

 ______  あんたは鈍いおぼっちゃんで、くだらねえカッコつけで・・。

 榎本の言葉がまた頭をよぎった。

「大きなお世話だって」

 憤懣の独り言が口から飛び出す。

 くだらないカッコつけ。

 それは、洋輔自身のひそかな自己評価でもあるからこそ、こんなに傷つくのだ。

 今まで、サッカーも勉強も、人の10倍は努力してきた。誰のためでもない。自分自身のためにそうしてきたのだが、るりがそういう自分を好きになったのなら、そのレベルをいつまでも維持していきたいと、変な見栄が働くようになった。

 嫌われたくはない。いい顔だけを見せていたい。るりにとって、頼りがいのある男でいたい。あからさまな性欲を見せたくはない・・。

 そう、それが本当の自分なのだ。

 好きだからこそ、本音で向かい合うことを恐れる、臆病な人間。

「るり・・」

 彼女はどうなのだろう。

 怒っても膨れても、決してタガを外さない彼女。まるで「ネガティブな感情を見せるのはここまで」と、きっちりと線引きをしているかのように、常に笑顔を用意しているるりは、本当のるりなのだろうか。

 彼女と話がしたい。今すぐに、声が聞きたい。

 洋輔はケータイを取り出し、るりに電話をかけた。だが、つながらなかった。ケータイの電源を切っているのか、あるいは電車にでも乗っているのか。

 _____ とにかく、ひっぱたいてでも榎本を連れ戻して、東京に帰らなきゃ・・。

 洋輔は懐中電灯を持ち、車外に出た。

 遊歩道に戻り、誰もいない暗闇を歩き出した。

「榎本!」

「何だよ」

 左手から、即座に返事がかえってきた。

 洋輔の手から懐中電灯が落ち、ゴンと音をたてて転がった。 

「ふふ・・一人が寂しくなったのか?」

 闇のなかから、白いジャケットが現れた。懐中電灯を自分の顔の下にあて、ニヤニヤ笑いを浮かび上がらせる。

「帰ろう。いい加減にしないと、電車がなくなる」

 懐中電灯を拾い上げながら、動揺を見せたことが悔しくなった。全くみっともない。この女には、感情を乱されっぱなしだ。

「へいへい」

 榎本は洋輔の前を歩き出しながら、何かをひとくち飲んだ。良く見えないが、酒の小ビンのようだ。

「ちょっとおい。何飲んでるんだよ」

「ストリチナヤ。チョコレートとあうんだよな、これが」

 呆気にとられ、口が大きく開いた。

「飲んでちゃ・・運転できないじゃないか」

「これくらいで酔うあたしかよ。よろしければ、おぼっちゃまもどうぞ」

 要らないと断わるかわりに、洋輔はなぜか瓶を受け取ってしまった。少量の酒を口に含んで飲み下すと、喉がカッと焼けた。

「なあ、楢崎」

 榎本は立ちどまり、振り返った。

「なんだよ」

「ついでに教えてやろうか」

「え?」

「るりが喜ぶキスのしかたを教えてやる」

「は?」

 榎本の行動は素早かった。気がつくと、もう首と胴を抱えられ、体と体が密着していた。

「おい、なに・・」

 顔が一気に熱くなり、心臓の鼓動が倍加した。

「今度は突きとばすなよ。これはただのレクチャーだからな」

「やめろって。ちょっ・・」

 ふふ、と笑いながら、榎本の唇が近づいてきた。

 柔らかなものが触れた。

 唇の内側を、舌でぐるりとなぞられる。くねる舌が奥に侵入し、情熱的なディープキスになった。

 キスなどというものではない。この動物的な行為はまるで、一種のセックスだ。

「ん・・」

 全身に鳥肌が立ち、ペニスが固さを増したのがわかった。

 いったい自分は何をしているのだろうか。

 なぜ、この変態女の言うなりになって、キスなどされているのだろうか。

「やめろって・・!」

 顔を上にあげ、執拗な唇を避けた。

「・・興奮するだろ?」

 榎本は平静な声で言った。小馬鹿にしたような表情は消えていた。

「正直に答えろ。興奮しただろ?」

「・・したよ」

 不承不承答えると、榎本は洋輔の体を解放した。

「じゃあ帰ったら、続きはるりとしろ。お前が抱く女は、あいつだからな」 

 車に戻り、運転席に乗り込むと、榎本は小さな声で言った。

「そして、あたしの続きは、あの単細胞の野球バカ」

 ケロリとした顔で洋輔に視線をやった彼女の目のなかには、表情を裏切るものが浮かんでいた。洋輔を見ていながら、全く別のものを_____ いや、別の男を、その向こうに見ている。

 ああ、こいつは自分と同じだ・・と洋輔は思った。

 特別な誰かを心の中に住まわせている、ひとりの人間の目だ。

「早く帰ろう」

 前を向き、洋輔は言った。なぜだか、少しばかり心が暖かく切なくなり、泣きたいような気持ちになっていた。

「ああ」

 榎本はうなずいた。

「帰ったら、彰にちゃんと謝れよな」

 洋輔は言った。

「らじゃ」

 榎本は清潔な歯並びを見せて笑った。

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