「先輩。ホントに大丈夫ですか?」
るりは、何度めかの同じ質問を繰り返した。
「ヘーキヘーキ」
るりをおぶって歩く、彼の歩調は衰えない。下り坂だから、スピードがつかないよう慎重に運ぶ足取りには、運動神経に裏打ちされた安定感がある。
人っ子一人いない、暗い山道。
口から吐き出される息が、タバコの煙のように立ちのぼる、底冷えのする寒さだ。ケガをした手はズキズキするし、足に至っては痛いのを通り越してマヒ状態だ。
けれど、るりはすっかり落ち着いていた。国坂先輩のしっかりした歩き方が、るりの乱れた心を平たくならしてくれるような気がした。骨組みのがっちりした肩につかまっていると、もしお兄さんがいたら、こんな感じなのかなあと想像してしまう。
「なあ、歌でも歌ってくれよ」
前を向いたまま、国坂先輩が言った
「るりちゃん、歌がうまいんだろ。洋輔が言ってた」
「えっ、うまくなんか、ないですよ」
楢崎くんは、そんなことを国坂先輩に話しているのか、と照れくさくなった。一度だけ一緒にカラオケボックスに行ったことはあるけど、あまり歌わずにおしゃべりばかりしていたのに。
「なあ、知ってるか。遥ってさ、歌が激ベタなんだぜ」
国坂先輩の頬がニヤリと歪んだのが、後ろからでもわかった。
「え、ホントですか」
「俺、あいつが苦手なのは料理だけかと思ってたんだけど、歌も相当だぜ。今度からかってやり? すんげえ怒るからおもしれーぞ」
「はい」
るりはクスッと笑った。
国坂先輩は、きっと気づいてないのだろう。るりに、というより、国坂先輩以外の誰にからかわれたところで、遥はきっと本気で相手になんかしないってことを。
それにしても、遥への怒りはもうとけたのだろうか。彼の口調からは、さっきまでのトゲトゲしさがすっかり消えている。
いいな、と羨ましくなる。自分と違って、この人のお腹のなかには、イジイジしたところが何もないのだ。
「ホントに、いいですねぇ」
歎息まじりに、るりはつぶやいた。
「なにがあ?」
「歌がヘタだとか、何でも言い合えて、ケンカもできて、なんかいいなあって」
「そっちだって、何でも言えばいいじゃん」
「そうなんですけど・・・」
「ま、あれだな。俺もヒトのこと言えないけどさ、洋輔も初心者マークだからな」
「初心者?」
「だから、イマイチ女に免疫がないってこと」
「え、でも、だって」
るりは口ごもった。
「楢崎くん、あたしの前にカノジョいたし」
それにすごくモテるし。
「そうだけどさ、めっちゃ好きなコとつきあった経験はなかったんじゃないの・・よいしょっと」
国坂先輩は肩を揺すって、るりを抱え直した。
—- めっちゃ好きなコ。
それはこの自分のことを指しているのだろうか。
「『宝物』とかって言うんだもんなあ。言わねえよなあフツーはさあ・・」
国坂先輩はぶつぶつと呟きながら、首をコキッコキッと回した。
「え?」
「『今の俺にとっては宝物みたいなんだ』ってさ。もう、イタイくらい超真顔で言うわけよ、あいつって男は」
「あの、何が、ですか? 宝物ってサッカー?」
「ハァ? 話の流れをちゃんと汲みなさいよ。オタクの話に決まってんだろ」
「あたしの・・」
「そう、あなた」
国坂先輩はフッと鼻で笑った。
タカラモノ。
五文字から成るその単語を、るりは外国語のようにぎこちなく、心のなかで反芻した。
「ちなみに俺の宝物は、小学校三年ときに買ってもらったグローブなんだけどさ。なんてゆーの、あれがあるから今の俺があるってゆーの?」
国坂先輩は野球との出会いの話を、熱く語り始めた。
るりはあいづちを打つこともできず、黙りこくっていた。うつむいて唇をきゅっと結んだが、目の奥がどんどん熱くなっていく。
こらえきれず、ズズッと鼻をすすった。
「なんだ。風邪でもひいたのか」
国坂先輩が訊ねた。
るりは何も答えられなかった。
暖かな涙が次から次へと流れ出し、パタパタと頬を落ちていった。
14.
ふもとに辿り着いた頃には、彰の疲労は極限に達していた。
駅の公衆電話でるりちゃんの親に電話をし、途中まで車で迎えにきてもらうことにした。
「国坂先輩の家まで送るって、父が言ってますので」
電車に乗ると、るりちゃんは言った。
「俺はいーって」
「そうさせてください。もうクタクタでしょ?」
「ぜーんぜん」
と見栄をはりつつも、彰はその5分後には爆睡してしまった。るりちゃんに揺り起こされ、彼女の父親が運転する車に乗せられると、またぐっすりと眠り込んだ。気がつくと、我が家の真ん前に車が停まっていた。
これからかかりつけのお医者さんのところにいきますので、とるりちゃんはお辞儀をして、まっすぐに彰を見つめた。
「本当にありがとうございました」
感謝のマナコで見つめられると、くすぐったくなった。
自室に戻るが早いか、彰はベッドに身を投げ出した。
______ 遥に電話しなきゃ。でも、悪いのは向こうだしなあ・・電話かかってくっかな・・。
プライドと恋しさの狭間で揺れ動いているうちに、睡魔がまたやってきて、深い眠りに落ちていった。
目が覚めたのは、ケータイが鳴ったためだ。「うー」と呻きながら、充電器にセットしたケータイを手探りで取り上げ、耳にあてた。
「電気つけっぱで寝てるんじゃねーよ」
遥だ。
「・・・おう」
なぜ電気をつけっぱなしだと知っているのだろうか。
「どこにいんだよ、今」
「外」
シバシバする目をこすりながら立ち上がり、窓を開けた。下の道路に遥が立っている。
「ちと待ってろ」
ニヤけそうな顔を引き締めながら、既に眠っている両親を起こさないように、ソーッと外に出た。マンションの階段を駆け降りたが、エントランスはゆっくり歩いて出る。ケチなプライドのためである。
だが、遥は髪をパッと翻して駆け寄ってきた。なんだかシャンプーのCМみたいだと見とれていると、タタタッと三段跳びのごとき勢いで抱きつかれ、足もとがよろけた。
「彰・・」
遥は甘く囁いた。
「言って・・・。怒ってないって」
—-うわあ、女みてえ。
顔面の筋肉が総崩れを起こした。
「ちゃーんと、謝りなさい、ほら」
「お前だって怒鳴っただろ。二日酔いの頭にキンキンきたぜ、まったく」
「あのなぁ・・お前はだいたい・・んぐ・・」
キスをされたので、言葉が尻切れトンボになった。プライドをじんわりと溶かす、甘い甘い女の子の唇。遥の唇だ。
遥は顔を少し離し、上目で彰を見つめた。
「ごめん」
彰の首に両腕を巻きつけたまま、まるで女の子のような(いや、女の子なんだが)可愛らしい小声を出す。
「ねえ、怒ってない? そう言ってよ」
マッタク、ミエミエである。都合のいいときだけ、こういう声音を使う女なのである。
だが、彰は笑み崩れて、こう答えてしまう。
「怒ってないよ。俺もごめんネ」
語尾にピンクのハートをあしらった、このチャラい声。
本当にこれが、自分の声帯の産物なのだろうかと呆れる。
だがこれが、いわば「恋は魔物」ってヤツなのだ。巌をもクリーム菓子に変える、恐ろしいものなのだ、恋というヤツは。
もう一度遥の唇を味わってから、彰は気になっていたことを聞いた。
「遥、今日何やってたんだよ」
「別になーんも・・・。つまんなかった」
遥は肩をすくめた。
「超つまんね。退屈。アホくさくて無駄な一日だった」
そーだろそーだろ。俺がいなきゃつまんないよなぁ、とニヤつきを是正しながら、ゴホッと咳払いをした。
「こっちはなあ、大変だったんだぞ」
「あー聞いた。どじな女のしりぬぐいしてやったんだろ?」
「ま、な」
「るりのヤツ、『国坂先輩っていい人』って、目に星飛ばしてたぜ。惚れたんじゃないのか」
「惚れられても困るなー、俺、背のちっちゃい子ってどうも・・」
「ばーか」
遥は彰の手を取った。
「行こ」
「え、どこに」
「さあ、どこでしょう」
遥はジャケットのポケットから、見なれたものを取り出した。この間使ったフェイクファーの手錠だ。片方を自分の手首にかけ、もう片方を彰の手首にかけた。
「大人しく連行されなさい」
意味深に微笑むと、そのまま歩き出した。
真夜中の道を、遥と一緒に歩く。
どこへ向かうとも知れず、手錠につながれて、ただ歩く。彼女の髪が、冷たい夜風にふかれて、形のいい耳があらわになる。
彰はそれを見つめ続ける。
彰は、自分でも気恥ずかしくなるくらいに、幸せだった。
15.
_____ ああ、そうだよ。あたしはこの男につながれてるんだ。この手錠みたいに、頭も心もからだも、ぜんぶ。
遥は目的地に向かって歩きながら、そう考えていた。陳腐なラブストーリーだって、なんだっていい。今までのくだんない自分が、ぜんぶ壊れたっていい。
「恋」なんて、たぶんシャボン玉のようなものだ。
ふとしたハズミで、パッと壊れてしまうのかもしれない。だからいつか、この焦がれる思いも、あとかたもなく消えてしまうのかもしれない。
けれど、今は今だ。
過去でも未来でもなく、「今」を生きているのだ。
誰よりも愛おしい彰は、今ここにいてくれる。いったいなにを恐れることがあるだろうか。
もし、今誰かに「恋をしているか」とアホな質問をされたら、遥はこう答えるだろう。
ああ、しているよ。とびっきり生きのいい国坂彰って男に、あたしはもう夢中なんだよ、と。
「あれ、ガッコーの方角じゃん」
彰が言った。
ようやく気づいたらしい。スーパーの角を曲がれば、もう高校の校舎が見えてくる。
「徒歩圏内にあるってべんりだよな」
遥がこの高校に進学した唯一の理由がそれだ。中学時代の担任は、東大合格率ナンバーワンの高校に行けとしつこく勧めたが、満員電車での通学など御免こうむる。遥にとっては、「ラクが一番」なのである。
「ねえ、どこでする?」
校門の前に着くと、遥は彰を見つめた。
「するって?」
「ふふ・・彰のお望みのままだよ。校庭でも、教室でも・・」
「うわっ、マジ?」
彰は一気に興奮したようだった。ニヤリと笑って遥を見つめ返す、このノリの良さ。
「いや、でも、門が閉まってる」
高さ2メートル半はある校門の鍵は、ガッチリとかかっている。
「乗り越えよう」
遥はワクワクしながら言った。
「この手錠つけたまんま?」
「そ」
「スッ転ぶなよ」
彰は闊達に笑った。
「そっちこそ」
二人は助走し、同時に地面を蹴ってジャンプをすると、門のてっぺんを掴んだ。鉄棒の要領で、体を持ち上げてひねり、門に跨がる。
「その運動神経遊ばせとくの、もったいねーぞ。運動部に入れよ」
彰はあかるい笑い声をあげ、遥の手を握った。
紅潮した笑顔があんまり可愛いらしかったので、遥はその唇に一瞬のキスをした。そして、手をつないだまま、一緒に門を飛び下りた。
16.
るりは家の電話で楢崎くんのケータイに電話をかけた。もう夜の12時近い。もっと早く話したかったのだが、両親が寝静まるのをじりじりしながら待っていたのだ。ケガをした上に、彼氏ではない男の人と二人きりだったので、両親の表情はひどく険しかった。「遥達とははぐれてしまった」と言い訳をしたが、信じているのかどうか、今一つわからない。
楢崎くんはすぐに電話に出た。
「るり、どうしたんだよ。電話がつながらないから、心配したよ」
「うん、ごめんね」
斜面から落ち、ケガをしたことを教えると、楢崎くんは「ええっ」と声をあげた。
「だ、大丈夫なの? ケガひどいの?」
「大丈夫。足首捻挫して、腫れちゃっただけ。国坂先輩がずっとおぶってくれたの。ちょっと歩けないから、明日はガッコ休むけど、あさってからは行けるよ」
包帯に包まれた足首を撫でながら、楢崎くんの声をやっと聞けた安堵がこみあげ、涙が出そうになった。
「俺、今からそっちに行くよ。家の外に出られる? 足、動く?」
「大丈夫だけど・・今から?」
「うん、会いたい」
楢崎くんと会える。顔が見られるのだ。
電話を切ると、足を引きずりながら洗面所に行き、髪をとかしてリップをつけた。鼻の頭にスリ傷がある。転げ落ちたときに擦りむいたのだ。こんな顔を見せたくないが、夜だからハッキリとはわからないかもしれない。
門の外に出て待っていると、楢崎くんはすごいスピードで自転車を飛ばしてやってきた。
「あーあー、包帯してる。あれっ、手も!」
自転車からおりると、るりの手と足を交互に見た。
「ヘーキだって。ほんとに」
「どーして落ちたりするんだよ、本当にもう!」
楢崎くんは、ハーッと鋭い音をたてて息を吐いた。
髪がめちゃくちゃに乱れ、息を弾ませている。いつもほのかに漂わせているクールさは、影も形もない。彼が家まで全速力で来てくれたことが、胸が詰まるほど嬉しかった。
汗の玉が浮いた楢崎くんの額を見つめながら、るりはキュッと唇を結んだ。
_____ あたしはちゃんと、自分の気持ちを正直に言おう、言わなきゃだめなんだ。
「あのね」
あのね、だけでもう、心臓が爆発しそうになる。本音トークって、甚大な勇気が必要だ。
「あたしね・・その、『フツー』だって言われて、それでワケわかんなくなっちゃったの」
「へっ?」
楢崎くんは眉を寄せた。
「えーと、その・・国坂先輩と話してて・・その、楢崎くんと遥の話になって・・楢崎くんは、遥みたいのは生理的に受けつけないって、国坂先輩が言って・・そんでもって」
しどろもどろだ。
楢崎くんの顔に「?」が浮かび始めたので、るりは一気に焦った。なんでこう頭がわるいのだろうか。筋道立てて話したいのに、それができない。
「あの・・つまり、だから・・国坂先輩があたしのことを、『フツーの子』って言って、あたし、めちゃくちゃ悲しくなって・・」
「ストップストップ」
楢崎くんは、右手のてのひらでるりを制した。
「ついてけない。落ち着いて、始めからちゃんと話して」
「う、うん」
るりは深呼吸をした。楢崎くんがちゃんと聞こうとしてくれていることがわかり、強ばりが少し解けた。
「その・・あたしね、楢崎くんがどうして、あたしとつきあおうと思ったのか、よくわからなかったの」
るりは喉の下あたりに手をやり、ゆっくり話そうと努めた。
「楢崎くんはサッカー部で活躍してるし、成績も超いいし、皆に人気があって・・しっかりしてるし。でも、あたしは何だかこう・・特になにもないっていうか、その・・そういう自分が悲しいなって思ってた」
楢崎くんは黙って聞いていた。顔から「?」が消えつつある。
「つきあう前までは、憧れだけですんだのに・・今は、そうじゃない。あなたにつりあう女の子になりたい・・と思う。でも、なかなかそうできなくて・・だからせめて・・嫌われたらおしまいだとか思っちゃって・・あたし、素直に話せなくなってた、のかも」
「るり」
「ごめん。バカみたいだって思うよね。あたしも、なんか、わかってるんだけど、勝手に頭が堂々めぐりっていうか」
「るり、ちょっと待って。えーと・・」
楢崎くんは額に手のひらをあてた。
「えーと、転げ落ちてケガしたってゆーのは、それが、つまり、原因?」
「そう、あの・・そうなの」
るりは慌てて言い添えた。
「楢崎くんが遥と一緒だから、あたし、すっごい心配になっちゃって。そしたら、国坂先輩が、心配ないって言ったの。楢崎くんは、あたしみたいな子を彼女にしてるわけだし、遥には興味ないからって」
「るりみたいな子?」
「うん、つまり・・『フツーの子』ってことで・・。だから、あたしなんだかキレちゃって、気にしてること言われたから、どうしようもなくなって・・ひとりで泣きながら歩いてたら、こんなことになったの」
「はあ・・」
楢崎くんの肩が5cmも下に落ちた。
やっぱりあたしはバカちんだ、とるりは自嘲した。今、誰かに「おい、そこのバカ」と呼ばれたら、「はい」と振り向いてしまいそうだ。
「国坂先輩には、すごく迷惑かけちゃった・・」
「いや、だけど」
楢崎くんは言った。
「彰も彰だよ。なんか、どういう言い方したか想像つくなあ・・」
るりは顔を横に振った。
国坂先輩は言ってくれたのだ。
楢崎くんが言った言葉を、るりに伝えてくれた。あれは、きっと一生忘れられない言葉になる。だからこそ、楢崎くんとちゃんと向き合う覚悟のようなものが、生まれたのだ。
「るり・・あのさ、俺も同じ、だよ。たぶん」
るりは楢崎くんの顔を見上げた。
憧れて憧れて憧れ抜いて、今、自分の傍にいてくれる、世界でいちばん素敵な男の子の顔は、うっすらと赤らんでいた。
「榎本にさ・・言われちゃったよ。俺はくだらねえカッコつけだって」
「え・・」
「めっちゃ傷ついた。だって、その通りだし」
楢崎くんは、眉を8の字に下げて笑った。
17.
るりから素直な告白を聞いたことで、洋輔のなかでピンと張っていた糸がゆるみはじめた。
好きな子の前では、最高にカッコいい男でいたいと、肩肘を張っていた。
るりが見ているところでは、どんな失策もしたくない。彼女の目に浮かぶ賞賛を、ひとりじめにしていたかった。
「俺も同じなんだよ。全然すごくなんかない。嫌われるのが怖いのはね、こっちも同じ」
洋輔は言った。
腹のなかのことを、濾過せずにそのまま口に出す快さを味わっていた。
______ そう、同じなんだよ、るり。むしろ、それは俺のほうが強かったのかもしれない。
「嫌うわけないじゃない」
るりは瞬時に言い返した。
「嫌うなんて、ありえない」
「すんげーみっともないとこ、見せても?」
「みっともないって?」
「恥ずかしくて言えない」
洋輔は腕をのばし、るりの体をそっと抱きしめた。
「好き」
るりがつぶやいた。
両腕が首に巻きつき、るりの唇が洋輔のそれに触れた。るりのほうからキスをされるのは、ひさしぶりだった。彼女は大抵の場合、受け身を守っていたからだ。
足が痛いのか、バランスが取れずぐらぐらゆれる体を、洋輔は強く抱きかかえた。
夏の日に、いきなり洋輔の人生に飛び込んできて、心をかっさらっていった女の子。
奔放なくせに臆病。
あかるくて、やさしい。
勉強が苦手で、でも料理はうまくて、笑顔がとびきり可愛くて。
いつもそっと抱いていたい、洋輔の宝物だ。
だが、自分は骨董品マニアのおじいさんじゃないのだ。気取っている場合じゃない。彼女にキスをし、彼女を抱く権利を、今行使しなくて、いつ行使するのだろうか。
洋輔は舌でるりの歯を割り、ディープキスをした。「帰ったら、るりにしてやれ」と言った、榎本の顔が、一瞬浮かんですぐに消えた。
「んん・・」
るりの喉が、甘い音をたてた。同時に、背中からガクリと力が抜け、洋輔は慌てて彼女の体を支えた。
唇を離すと、るりの睫がサワサワと震えていた。
「やだ・・なんか、ふごい」
ろれつが回っていない。洋輔はクスッと笑った。
「るり、足はめっちゃ痛い?」
「んんん」
るりは可愛らしくかぶりを振った。
「痛み止めもらったひ、だいぶマシ」
「じゃ、自転車の後ろに乗れるかな」
「じれんしゃ?」
「うん。俺んちに来てほしい。明るくなる前に帰す。・・でも、お父さんやお母さんにバレるの怖い?」
ドキドキしながら聞いた。断わられたらかなり傷つく。「小心もの」と言った榎本の言葉は、実際的を射ているのだ。
「行く」
るりは、急に目が覚めたように、きっぱりと言った。
「バレて怒られたっていい。楢崎くんちに行く」
「でも、足、マジで平気?」
「平気・・平気だよ」
るりは洋輔に抱きつき、小さな笑い声をあげた。
「行く、行く。楢崎くんちに行く」
何度も繰り返しながら、泣き笑いになっていく彼女の顔を見つめた。
洋輔の胸のなかに、安堵と歓喜の嵐がごたまぜに吹き荒れた。
そうだ。
なぜ自分は忘れていたのだろう。何を怯えていたのだろう。
磯村るりという女の子は、こんなふうに、いつでも自分を受け止めてくれる。なぜなら彼女はびっくりするくらいの機動力を隠し持つ、勇敢な女の子なのだから。
洋輔はるりの髪に鼻を埋め、甘い髪の香りを胸一杯に吸い込んだ。